長崎への原子爆弾投下の最終訓練が西東京市の上空で行われていたことにちなみ、市民団体「平和のための戦争展 西東京市実行委員会」メンバーを中心に、記念碑を作ろうという声が高まっている。
原爆を身近なこととしてとらえ直そうとの考えからで、23日には、20年ほど前にその調査に当たった元住吉公民館館長、井藤鉄男さんによる講演会「柳沢に落とされた原子爆弾の模擬爆弾について話をきく会」が開かれる(2009年6月)。

市民ら、「記念碑」建立を呼びかけ
西東京市上空で原爆投下の訓練が行われたのは1945年7月29日。現在の「しじゅうから第二公園」(柳沢1-14)付近に着弾し、3人が死亡、16人が負傷したという。
この爆弾は、長崎県に落とされた原爆と同型のもので、全長約3.5メートル、直径約1.5メートル。重量は4.5トンで、重さを増すために硫黄が大量に詰められていた。
西東京市が標的となったのは、軍用飛行機工場の中島飛行機製作所が武蔵野市を中心に広がっていたため。もともとは福島県郡山市にある燐(りん)工場に落とす予定だったが、雲が多く断念。その帰途、第2目標だった中島飛行機製作所に向けて落とされた。
爆風をイメージした実戦的な訓練投下
攻撃した飛行機は実際に長崎で原爆を投下したB29で、通称「ボックスカー」。
日本全土でこの模擬爆弾は49発投下されているが、同機にとっては、柳沢に落としたのが最後の訓練だった。
目撃証言によると、同機は模擬爆弾を投下後、急カーブして進路を変えたそうで、これは、実際の原爆投下時に爆風で飛ばされないようにするための重要な訓練だったと推測されている。
こうした史実は、戦争の記録を残そうと活動する各地の市民団体を通して判明し、旧保谷市(西東京市)では、公民館だよりで記録を連載するなど、市民にも伝えてきていた。当時、聞き取り調査などを中心になって行った井藤さんは、「地元の警防団の記録などで『特殊爆弾』の文字が散見され、当時から、ふつうの爆弾とは違うとはっきり分かっていたようです」と話す。
ただ、これらの史実が忘れられがちなのも事実。そこで、市民団体を中心に、記念碑を建ててはどうかとの声が出始めている。
23日の講演会は、その第一歩として企画されるもの。午後1時から、柳沢公民館(柳沢1丁目)で。
※編集部注:このイベントは終了していますが、地域のアーカイブ情報として公開しています
※編集部注:2025年7月29日に、しじゅうから第二公園に記念碑となる解説板が設置されました