義父の死

ノンフィクション作家の柳田邦男さんが以前、「医師が臨終を告げると、家族は故人の顔ではなく、一斉に心電図モニターを見る」と書いていた。機器への依存によって大切なものが失われている――と指摘する文章で、似たようなことを、本紙に時々エッセーをご寄稿いただく太宰賞作家の志賀泉さんは「『雨が降りそう』とつぶやくと、みんな慌てて、空ではなくスマホを見る」という形で言及されていた。

技術の進展によって私たちの感覚が変わり、ある面においては、大事にすべき何かを失っていっているのは間違いないだろう。私自身は、機器の恩恵を受けつつ、必要以上に近付き過ぎないように、と自分を戒めてきたつもりでいた。

が、先週、認識が大きく変わる出来事に出会った。義父の死だ。

義父は離島におり、1カ月前から危篤だったのだが、平日の朝に病院に詰めていた義妹から電話があり、「血圧が下がり、いよいよ危ない」とのことで、急きょ、オンラインでつながった。

そこから息を引き取るまでは、およそ40分程度のことだった。その間、妻・私・子どもたち(義父から見て孫たち)は関東の自宅の中で、スマホの画面を通して義父を見守り、呼びかけ、感謝の思いを伝えた。本人に届いたかは分からないが、たとえオンライン上であっても、確かに最期の時を共に過ごしたという感覚はあった。いつ息を引き取ったのか、ディテールは分からずもどかしさは残ったが、それでも医師が臨終を宣告する場面に″立ち会え”、見届けたという気持ちにはなった。

翌日、クリスチャンである義父の前夜式が開かれ、再びオンラインで式に″参加”した。後日の葬儀に出席する予定だったため、オンラインで前夜式を見ることに積極的になれなかったが、見ているうちにどんどんと考えが変わった。リアルタイムに進行する式の中で、牧師が義父の経歴を語り、功績を口にし、人柄を偲んでいる。それを聞きながら、鼻をすする参列者たちの音がする。讃美歌を耳にし、牧師の言葉を聞いているうちに、遠く離れた場所でただモニターを覗いているだけなのに、確かに場を共有しているような気持ちになった。

牧師は、聖書朗読で、マタイによる福音書の第6章を読んだ。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」

義父に安らぎを。

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谷 隆一

「タウン通信」代表。多摩北部にて、2008年から「タウン通信」を発行。
著書に、『中高生からの選挙入門』(ぺりかん社)、『議会は踊る、されど進む~民主主義の崩壊と再生』(ころから)ほか。
当コラムは、地域情報紙「タウン通信」で掲載した原稿を転載したもの。

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