火葬を考える

前号で、義父の他界について触れたが、印象的な場面があった。私の妻の弟はポーランド人と結婚しており、彼女も来日したのだが、火葬に立ち会うのは初めてとのことで、その後しばらく何も口にできないほどショックを受けていた。

確かに、火葬というのはなかなか残酷に思える。私が彼女に共感するのは私自身が火葬を望まないからで、できれば土葬にしてほしい、いや、鳥葬でも構わない、というのは何度か妻に話したこともあった。

「そういう現実味のないこと言われても困るんだけど」

妻はつれない。国内でも土葬が可能な墓所があると聞きかじっているのだが、「家の墓があるのに、一人だけそこに入るわけにいかないでしょ?」と正論を突き付けられると、返す言葉がない。挙句には、「あんまり言ってると、ジェイコブズの『猿の手』みたいになるよ」と警告された。

『猿の手』は、願いを何でも3つまで叶えるという魔力を持ったオブジェを巡る短編小説。夫婦が「お金がほしい」と願うと翌日に息子が事故で死に会社から金一封が贈られて……という話。「ろくでもない願望を口にしていると、そのうち、殺されて山に埋められるとか、変な形で望みが叶っちゃうよ」と言われ、なるほど、その恐れはあるかも……と背筋が寒くなった。

それにしても、なぜこうも火葬を避けたいと思うのだろうか。自己分析するに、理由は2つだ。一つは不自然さ。わざわざ焼いたりせず、埋められて肉体が土になるほうが明らかに自然だ。もう一つは意識の問題。死者に意識がないとは、誰にも断言はできない。(一般論としては死生観、宗教的理由があるが、これは私には該当しない)

ちなみに、妻は積極的な火葬派だ。「きれいさっぱり。清潔だもの」とあっけらかんと言う。

「でもさあ、万一意識が残っていたなら、意識はあるのに暴力的に焼かれることになるんだよ。それって、ひどくない?」

私が反論すると、妻から強烈な一撃が来た。

「じゃあ、土葬するじゃない? で、意識があったらどう? 気付いたときには、真っ暗な密閉空間で、ずっと孤独にそこにいるのよ」

むむ……、それはそれで苦しい。

――と、かれこれ考えるとつらくなるが、誰もが行った道だと思えば多少気も楽になるか。私としては、葬儀や墓の形が多様化しているように、埋葬の形ももっと自由になってほしいのだが。

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谷 隆一

「タウン通信」代表。多摩北部にて、2008年から「タウン通信」を発行。
著書に、『中高生からの選挙入門』(ぺりかん社)、『議会は踊る、されど進む~民主主義の崩壊と再生』(ころから)ほか。
当コラムは、地域情報紙「タウン通信」で掲載した原稿を転載したもの。

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