ビートルズって、何?【4】《前例のないバンド=ビートルズのデビューは、最後まで迷走?!》

西東京ビートルズ倶楽部(NBC)代表 田中敏久

 このサイトでは皆さんと一緒に【ビートルズが残してくれたもの】について語り合い、自分たちの音楽活動や社会の動きをどう思っていたのか、ビートルズや彼らを取り巻く人々とのdynamics(関係性/集団力学)に注目して探ったり、今なお愛されている《ビートルズサウンドの秘密》を考えたりしたいと思っています。たくさんのご意見や感想を、どうぞよろしくお願いします!

 前回、リパブールに戻ってデビュー曲をレコーディングをする頃のビートルズが人気絶頂だったのに崩壊寸前にまで落ち込み、二人の<5人目のビートルズ>との出会いを経て、デビュー直前の生みの苦しみが始まるところでした。

 今回は、3度もデビュー曲を録音し直した頃のビートルズ。あまりに<前例がないバンド>だったために迷走しながらも、彼らの実力と魅力を信じる人達に支えられて、ようやく本来の力を発揮することができるようになります。

遂に音楽ユニットとして完成。「リンゴはいつも笑顔!」 《1962年8月18日》

 前回の6月にアビーロードスタジオで、ジョン、ポール、ジョージ、ピートの4人で録音した4曲は、結局この時は発売されませんでした。(後に”Love Me Do”他1曲がAnthology1に収録)

 理由の一つは、またしてもピートのドラムでした。EMIのジョージ マーチンとロン リチャーズは二人ともピートはレコーディングには不適格と判断し、今後は使わないと結論を下したのでした。(マーチンは後に、演奏技術への不満の他にも「他の3人が演奏や熱意に対して堅く団結する一方で、ピートは真の意味でのメンバーに見えませんでした。」と法的文書で述べています。)

 ビートルズの3人もマーチンに言われる前からピートのドラミングには不満があったことは、前回もお話しました。それでもピートを代えなかったのは、ピートの母モナが以前からバンドのライブの仕事探しに熱心だったことや、友人でもありローディとして人も機材運びも頑張っていてくれて、後にアップルの役員になるニール アスピノールがモナと同棲していたことも関係ありそうです。

 それでも、マーチン達のピートの技術に対する判断が、ドラム交代の大きな後押しになりました。

 これからオリジナルでやっていこうとしているビートルズにとって、レコーディングの度に見知らぬドラマーと一緒に録音させられたのではたまりません。勿論、リンゴの安定したリズム(タイム感)や、一緒に行動でき一緒に笑える言葉のセンスもバンドメンバーとして重要な点でした。

 こうして、遂にビートルズは同じ感性と音楽性をもった4人の音楽ユニットとして完成したのです。

 この頃のフアンの一人も、18日の最初のステージを見た後で「初日からリンゴを好きになりました。彼は個性に溢れていて、後ろでふさぎこんでいる人とは大違い。ピートは絶対に笑顔を見せなかったけど、リンゴはいつも笑顔でした!」と興奮しながら話していました。

 この時期、ビートルズは機材もグレードアップさせ、後々まで使うGibsonギターやVoxアンプ等に買い換え、移動用のバンまで新調しました。勿論マネージャーのブライアンへの信頼感があればこその月賦契約でした。因みに、リンゴとの交代と別のバンドのリーダーとしての話をピートに勧めたのも「マネージャーとしてのブライアン」の仕事でした。(結局、ピートは断りましたが・・・。)

前例のないバンド、ビートルズ

 実は<ビートルズのレコードデビュー>に向けて、マーチン達が悩んでいたことは他にもありました。それは「ジョンとポールのどちらをリードシンガーにするか」ということでした。

 マーチンがビートルズに出会う前に「クリフのような新人歌手を探し求めていた」ことはお話しましたが、この頃の若者向けの歌手は皆<クリフ リチャードとシャドウズ>や<バディ ホリーとクリケッツ>のように、<一人のリードシンガーとそのバックバンド>というスタイルだったのです。

 当時のことをマーチンは「ジョンとポールのどっちをリードシンガーにすべきか悩んでいた。その時ふと、彼らをありのまま売り出せばいいことに気付いた。私は型にはまり過ぎていたんだ。新しい発想だった」「彼らのような存在はこれまで見たことがなかった。ジョン、ジョージ、ポールは強力な連中だと思った。3人には素晴らしい個性があり、私を大いに魅了した」と振り返ります。
(マーチンはコメディーのライブレコードをヒットさせる等新しい発想と創造力をもっていました。恐らく当時唯一の、ビートルズを正しい方法でデビューさせることができる人だった筈です。)

 ビートルズが憧れていたプレスリーも、チャック ベリーやリトル リチャードも。メインで唄うのは一人で、スポットライトの当て方も、録音時のマイクの音量等も一人に集中していたのです。

 結果的にこの後のビートルズは、レコーディングの仕方もどんどん変えていくことになります。

二度目のアビーロードレコーディング ”Love Me Do” 《1962年9月4日》

 ビートルズの元に、マーチンから次のレコーディングの日取り9月4日と新曲のデモ演奏が送られて来たのはまだピートがいた頃でした。それは、見ず知らずの新人作曲家ミッチ マレーの”How Do You Dou It”という曲で、マーチンはこの曲をA面にするつもりだということでした。

 ビートルズの面々は、この曲を聴いてがっかりしました。彼らが目指していた大好きな黒人音楽とは似ても似つかない、白人英語で軽い感じの薄っぺらなポップロック風の曲だったからです。

 当時の業界の常識では絶対服従するしかないプロデューサーからの指示なので、止むを得ず練習して彼らなりのアレンジもしましたが、正直レコーディングしたくはありませんでした。

 「大嫌いな曲だった。僕らにはビートルズ独自のスタイルができていると思っていた。突然スタイルを変えてありきたりのレコーディングをしたら、それまでの努力が台無しだと思った」とはポール。

 ビートルズは”Please Please Me”を含む他のオリジナルの新曲と一緒にこの曲も練習して、飛行機で2度目のロンドンでのレコーディングに向かいました。

 この9月4日にアビーロードでレコーディングされたのは、6月の時とは違って”How Do You Do It”の他は全て二人のオリジナルでした。(”Love Me Do””Please、Please Me””Ask Me Why”等)このことは、ブライアンも含んだビートルズ側が、自分たちのオリジナル曲を自分たちのスタイルやサウンドで発表することを望んでいたことを表していたと思います。

 この日は、ドラマーが交代したこともブライアンから連絡してあり、セッションドラマー等は来ていませんでしたが、何が原因かは不明ですが録音は異例の深夜にまで及びました。

 それでも、デビューシングルのA面と考えられていた”How Do You Dou It”とマーチンがB面に選んだ”Love Me Do”の2曲は、ドラム交代後の初録音にしてはよい出来で、何とか使えそうでした。(この時録音された”How Do You Dou It”も、後にAnthology1に収録されます)

 しかし、そこには大きな問題がありました。ビートルズはたとえヒットするとしても、自分たちのスタイルに合わない”How Do You Dou It”をデビュー曲にしたくはなかったのです。

 この時、バンドのリーダーとして力を発揮して、マーチンに話に行ったのはジョンでした。
「人の嫌がる仕事は、リーダーのぼくがやらなければならなかった。」とはジョン。(後に「こんなクズを出すくらいなら契約しない方がましだ。自分たちの曲の方が意味があると思った。」とも)
マーチンも「ジョンが私のところにやって来て、『聞いてくれ、ぼくらならこれよりもっといい曲ができると思う。』と嘆願したんだ」とはっきり記憶しています。
(残念ながらその願いはこの時は聞き入れられなかったのですが・・・。)

デビュー曲が録音されるまで、舞台裏では・・・?

 最近分かってきたことですが、どうやらビートルズのデビュー曲を巡っては、マーチンとEMI(パーロフォン)側にいろいろと複雑な事情があったようです。

 ブライアンがまだマーチンと会う前。EMIの音楽出版業務の運営を任されていたシド コールマンにデッカで録音したビートルズのデモ録音を聴かせると、そのオリジナル曲に興味をもったコールマンは、それを自分達の会社から出版することをブライアンに提案します。

 何としてもレコーディングをさせたかったブライアンは、コールマンがビートルズのレコーディング契約の成立を手助けしてくれたら音楽出版権をコールマンに与えることを約束します。

 細部不明な点もありますが、この出会いがブライアンとマーチンが会うことに繋がります。ブライアンはビートルズの何らかの録音をマーチンに聴かせたのですが、残念ながらこの時のビートルズの録音はマーチンの心を動かすことはできなかったようです。

 しかしこの後、コールマンからビートルズの録音を聴かされた部下が「すごくいい曲だ。サウンドがいい。ヒットすると思う。今までにないサウンドだ。」と褒め、レコードを作る権利を親会社のEMIから許可してもらってでも自分達の会社でレコーディングすべきだと勧めたのです。

 コールマンから相談されたEMIのレコード部門の責任者のL G ウッドは一度は断りますが、再度頼まれた時に、丁度マーチンに都合の悪い事情があって断れないのをいいことに、この<ビートルズとのレコーディング契約>の仕事をマーチンに半ば強制的に命じます。

 つまり、コールマンにビートルズの曲の版権を与えるためのレコーディング契約の仕事をマーチンに押しつけてきた訳です。その結果が、前回お話した5月9日の契約の話となったのでした。

 勿論、ブライアンが誰に対しても誠実な態度で接したことで好印象をもたれていたことや、ビートルズがオリジナルの曲作りに力を入れてたきたことがあったからこその話だと思いますが・・・。

 ところで、この9月4日のレコーディングでマーチンがA面にするつもりだった”How Do You Dou It”はビートルズのオリジナル曲ではなかったので、当然コールマンから猛反対されます。

 結局、マーチンの意に反してデビューシングルはA・B面ともビートルズのオリジナル曲で、1週間後に再レコーディングすることになります。

三度目の正直?! 3種類の”Love Me Do” 《1962年9月11日》

 マーチンはふてくされて、9月11日のプロデューサーの仕事を部下のロン リチャーズに任せることにし、前回の録音が深夜にまで及んだ責任の一端がリンゴにあると考えたリチャーズは、今回は彼がよく頼んでいたセッションドラマーのアンディ ホワイトにドラムを任せようと考えます。

 残念ながら当時のレコーディングでは、たとえバンドの録音であってもこのようなセッションミュージシャンを使うことが多かったのです。その流れを大きく変えていったのがビートルズですが、この時点ではまだまだバンドとしての一体感やオリジナリティ等は理解されていなかったのです。

 この時はデビューシングルのB面となる”P.S. I Love You”をまず録音します。スタジオでアンディのドラムセットに動揺したリンゴは不安と不信感をもちますが、リチャーズに頼まれて素直にマラカスを演奏します。この曲は独創的なボーカルアレンジが奏功し、いい感じに仕上がりました。
(「この曲をA面に」という話も出たようですが、同名の曲が既にあったのでボツになりました。)

 その後、前回の録音の反省を元にテンポアップしてアレンジし直した”Please、Please Me”と前週の録音より進化することが期待された”Love Me Do”もレコーディングします。

 この時の”Love Me Do”では、アンディがドラムを叩き、リンゴはアンディの横で大きな音でタンバリンを叩きます。リンゴに言わせるとアンディはリンゴ以上のことは何もしていない、ということになりますが、実際に聴いてみても、6月のピートの演奏がリズムやテンポの乱れがはっきり分かるのと比べて、9月の二人のドラムに大きな違いがあるとは思えません。

※3種類の”Love Me Do”の録音は現在全て公式CDで発売されています。6月録音(ピートがdr)は”Anthology1”に収録。9月4日の録音(リンゴdr)は”Past Masters Disc1”に、11日録音分(アンディdr)はアルバム”Please、Please Me”で聴くことができます。

結局、デビューシングルはリンゴがドラムの”Love Me Do”! 《1962年10月5日》

 3度目の録音から1ヶ月もしない10月5日、ビートルズのデビューシングルが遂に発売されました。A面の”Love Me Do”は何と、リンゴがドラムを叩いたバージョンでした!(このバージョンは、その後1963年3月発売のアルバム”Please、Please Me”に11日の録音が採用された時にシングルも11日版に置き換えられました。)

 B面は前述のように、アンディがドラム、リンゴがマラカスの”P.S. I Love You”でした。

 デビューシングルの発売に向けて、ブライアンは様々な準備を進めていました。イングランド北部で夕方放送のTV番組”People & Places”の10月17日の放送でビートルズを取材して発売直後のシングルを聴かせるよう手配したり、ビートルズのバイオグラフィを自作してマスコミに大量に配ったりしました。

 人気の音楽雑誌『NME(ニュー ミュージカル エクスプレス)』誌にビートルズ紹介の特集記事を組んでもらったりもしましたが、ここでも彼らの前例のなさ故の苦労がありました。

 当時はバンドと言えば、演奏するだけの「インストゥルメンタルグループ」か、唄うだけの「ボーカルグループ」の2種類しか知られていなかったので、ブライアンは「ビートルズは、本質的にはボーカルグループだが、同時に一流の演奏家でもある」というように説明する必要があったのです。

 ビートルズがリパブール出身というだけで軽く見られるということもあり、ロンドン在住の広告担当者を新しく雇って、全国のレコード評論家やプレス向け情報をロンドンから流したりもしました。

”Love Me Do”がラジオ ルクセンブルグ(ビートルズの面々やイギリス中の若者が、深夜まで起きてアメリカ発の新曲や名曲に聴き入っていた放送局)で初めてかかったのも発売日の夜遅くでした。ジョージは後にこの時のことを「初めてラジオで聴いた時、全身が身震いした。人生最高の高揚感だった」と振り返ります。

”Love Me Do”は最初から売れ始めます。発売初日に地元のレコード販売会社の代表が「英国北西部全体でレコードが売れている」ことを伝えた時、普段は冷静で尊大で自信家のブライアンが興奮して小学生のように大喜びするのを見て「私の人生のステキな瞬間の一つだった」とも。
あまりの熱狂で「ブライアンが大量に購入してチャートを操作した」という噂も流れますが、ジョンはブライアンの人格を信じてこう力説します。「”Love Me Do”は、最初の二日間でリパブールであまりにたくさん売れたけど、それはみんなが僕らのレコードが出るのを待っていたからなんだ。ロンドンの販売業者たちはブライアンの詐欺だと言ったけど、そんなことはやっていない。」
このデビューシングルは結局、新人としては異例の、全英シングルチャート17位を獲得することになります。

この頃のビートルズにとって忘れられないのが、有名人との共演でビートルズの知名度を上げようとしてブライアンがブッキングした、長年のアイドルだったリトル リチャードとのリパブールでの共演です。(このツアーには、後年共演するキーボード奏者のビリー プレストンも同行しました。)

 自分の出番の直前に出たビートルズを聴いてリチャードは「ビートルズは最高だ!奴らを見なければ白人だなんて絶対に思わない。本物の黒人のサウンドがある」と自分のノートに記します。

 マーチンも、この頃にはビートルズの<グループでのサウンド>がヒットにつながると考え、第2弾シングルでもっといい結果を出すことを確信して、ビートルズに次のレコーデイングの日程を連絡してきます。

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 「ビートルズのこの曲なら弾ける」とか「演奏してみたい・唄いたい」という皆さんの声がたくさん集まったら、一緒に演奏したり唄ったりする会も企画したいと思っています。

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