体験者として「語るしかない」
長崎市の高射砲隊にいた18歳のときに被爆した。終戦後は、大分県や同県杵築市の教育委員会などに勤め、さまざまな場で体験を語ってきた。
小平市に移住したのは6年前。同市でも公民館や小学校で体験を語っており、19日(2017年)にも同市中央公民館で登壇する。

夏の山林にいたはずなのに、周囲が茶色の光景に…
強烈な閃光は、閉じた目にも真っ黄色に飛び込んできた。金比羅山中腹の高射砲陣地。山陰に身を伏せたが、数メートル先の側溝まで吹き飛ばされた。
「大丈夫か!?」
声を掛けられ周りを見渡して最初に思ったのは、「目をやられた!」というもの。山林にいたはずだったのに、見渡す限りの光景が茶色に変わっていた。
「まさか原子爆弾だなんてそのときは知りません。一瞬にして緑が消えた世界を見て、自分の目がおかしくなったのだと思いました」
胸から消えない異常な言葉を、一つでも残しておきたい
そこから先の世界は壮絶だった。「水をください」とすがってくる子どもたち。重度のやけどで焼けただれた皮膚からは体内の水分が噴き出たといわれ、トラックで死者を運ぶと、「死人の場所はない! 負傷者を連れてこい!」と怒鳴られもした。
「絶望的な異常な状況の中だから、飛び交う言葉も異常なものばかりです。その異常な言葉の数々は、胸の中から消えることがありません」
2年前の戦後70年を迎えた頃から、胸に残る言葉を詩でまとめるようになった。被爆体験者として、資料を一つでも多く残しておきたいという思いもある。
「残された時間はそう長くはありません。いま、語り継ぎの活動が始まっていますが、やはり体験者にしか語れないことがある。私も10月で91歳。家では酸素を手放せない体ですが、招かれればどこへでも出かけます。あの事実を、僕らが語らないでだれが話せるのですか」
より深い語りをするために、今なお資料集めに余念がない。肺化膿症の体を押し、今日も胸によみがえる言葉をノートに綴る。
◆たなか・よしみつ 小平市原爆被爆者の会会員。被爆後1年近く病床に伏せ、原因不明の発熱に苦しんだが、奇跡的に治癒。その後、体験を語り続けている。
田中さんの語りが、19日(2017)午後3時から4時30分まで、同市中央公民館で行われる。無料、予約不要。
※編集部注:このイベントは終了していますが、地域のアーカイブ情報として公開しています