ビートルズって、何?【3】

【3】二人の<5人目のビートルズ> 《ブライアンエプスタインとジョージマーチン》

西東京ビートルズ倶楽部(NBC)代表 田中敏久

このサイトでは皆さんと一緒に【ビートルズが残してくれたもの】について語り合い、自分たちの音楽活動や社会の動きをどう思っていたのか、ビートルズや彼らを取り巻く人々とのdynamics(関係性/集団力学)に注目して探ったり、今なお愛されている《ビートルズサウンドの秘密》を考えたりしたいと思っています。たくさんのご意見や感想、どうぞよろしくお願いします!


前回、イギリス国内やドイツのハンブルグ等々での、デビュー少し前のビートルズに起きた様々な出会いや別れを駆け足で見てきました。


今回は、リバプールに戻ってデビュー曲をレコーディングをする頃のビートルズ。


人気絶頂だったバンドが崩壊寸前まで落ち込み、二人の<5人目のビートルズ>との出会いを経て、デビュー直前のビートルズの生みの苦しみが始まります。

リバプールで活動再開。地元の人気No1バンドに! 《1961年1月~2月》

 ハンブルグから戻って数ヶ月、ジョージやベスト親子そして後述のボブ ウーラーの努力もあり、リバプール市内で演奏する機会がどんどん増えて行きます。2月には伝説の店TheCavernClub(キャバーン)のランチタイムセッションに出るようになり、ハンブルグで身に付けた強烈なパフォーマンスとハーモニーでどんどんファンが増え、演奏する場所も増えていきます。


 この頃を振り返ってジョンは「どのグループにも一人だけ違う服を着て唄うリードシンガーがいた。ぼくらだけが違っていた。他とは違う存在感を示すことで台頭したんだ」と言います。

 前面に立って対等に唄えるメンバーが複数いることが自分たちの強みだと考えていたのですね。

 そんなビートルズと出会って驚愕する人物が、キャバーンの階段を降りてやってきます。

ブライアン エプスタイン 《大盛況のNEMSの経営者からビートルズのマネージャーに》

 <5人目のビートルズ>と言われる人は何人かいますが、その中でも「この人がいなければバンドとしてのビートルズの成功はなかった」と言える程重要な人物。マネージャーとして初めてビートルズと契約を交わし、<バンドとしてのビートルズ>をこよなく愛し、本人達以上にその成功を信じて支え続けてくれた人。ブライアン エプスタインです。(前回登場したアラン ウイリアムズとは契約書を交わしてはいませんでした。) 

 リバプールの裕福なユダヤ人家庭に生まれ育ったブライアンは舞台衣装デザイナーを目指したり役者を志して演劇学校に入学したりしていましたが、健康上の理由から兵役を早目に終え、実家の家具商を手伝い始めます。リバプールの中心地で親が新しく始めた家電とレコード販売店NEMS(ネムズ)の経営を任された23才の頃には、そのマネージメントの才能を発揮し始めます。

 ロンドンでの経験を生かして客が求めるレコードをすぐに提供できる在庫管理システムを工夫したブライアンのネムズは、開店早々から評判の人気店となり、大盛況となります。

 ブライアンは、店独自の売り上げトップ20のチャートを作って有名音楽雑誌に提供する等忙しく働き回り、仕事に充実感を得るようになりました。でもしばらくすると、店の経営が順調にいきすぎ「仕事が楽になりすぎ」て、やりがいを感じることができず、退屈するようになります。

初の本格レコーディング “MyBonnie” 《Tony Sheridan & The Beat Brothers》

 そんなネムズに、レイモンドジョーンズという若者がシングルレコード “My Bonnie”を買いに来たのは1961年10月でした。「ないレコードがない」ことが自慢の店でしたが、その後に別の客が買いに来ても在庫がないばかりか、どのレコード会社の新曲リストにも名前がありませんでした。


 国内の会社に問い合わせても不明だったレコードがドイツで発売されたものだと分かって発注した後で、ブライアンはこのTheBeatBrothersというバンドが、本当はTheBeatlesという名前で何と自分の店から数百歩の所にあるキャバーンに出演している、地元の人気バンドだということが分かり、興味を持ち始めます。

 実はこの”MyBonnie”というシングルは、ビートルズ初の本格的な録音でした。少し前(1961年6月22日)にドイツの有名なプロデューサーの企画で、2度目のハンブルグ巡業で一緒にステージに出ていたトニー シェリダンと一緒に演奏・録音してドイツのポリドール社から発売されました。(西ドイツでは10月23日に、イギリスでは翌1962年1月5日に発売。)
 この録音では、ジョンとジョージがギターを、直前にスチュが抜けたのでポールがベースを弾き、3人でハーモニーもつけました。ジョンは後と代わらない声でソロも唄い、自分のベースを購入してから3週間ぐらいのポールも、ベースを弾きながらバックでシャウトしていました。

 この時、ドラムのピートはプロデューサーに「彼の腕はレコーディングには不十分だ」と判断されて、ドラムセットを一部取り外してスネアとシンバルだけで録音させられていました。


 トニーもピートのことを「手と足が調和していないで、ドラマーとしては有能ではなかった。やる気のなさそうな彼に向かってよく声を張り上げた。どうしてビートルズのドラマーが務まっていたのかさっぱりわからない。ほかのメンバーと全然うまくいってなかったからね」と酷評しています。

 この時ポリドール社とも契約書を交わし、自分たちだけの歌と演奏も録音していたビートルズは、自分たちのレコードが発売されるものと非常に期待していたのですが、イギリスでは発売の発表もなくなしのつぶてで、メンバーにとって大きな失望の元になっていました。


 実はこの頃、ビートルズはグループとしては非常に厳しい状況にありました。


 キャバーンをはじめ地元のクラブ等での演奏は定期的に行われていて、地元の音楽誌”マージービート”のフアン投票でNo1に選ばれる等リパブールでの人気は高かったのですが、ビートルズ自身は、サーキットと呼んだ地元のクラブ等を回っていくだけのバンドでは先行きが見通せないと悲観的になり、もしもそのまま何も起こらなければあわや解散寸前という状態だったのです。


 この時期にキャバーンでDJをしていて、ビートルズが出演できるようにする等親身になって面倒を見ていたボブ ウーラーも非常に心配して「彼らのことが大好きだったから本当に心配だった」と言っています。(ジョンも、ウーラーのことを冗談で父さんと言う程信頼していました)

ビートルズと出会って、一瞬のうちに・・・ 《1961年11月9日、1962年1月24日》

 そんな中、運命の日が遂にやってきました。事前に店のオーナーに行くと伝えていたブライアンは、ランチタイムセッションのビートルズを聴くために、個人秘書のアリステア テイラーを連れてキャバーンの階段を降りてきました。そして・・・。


「何かとてつもなく激しいものが迫ってきて、ステージの上の彼らの音楽、彼らのビート、彼らのユーモアのセンスに一瞬のうちに心を打たれてしまった。」


「ビートルズのサウンドは、世の中の多くの人達の心に訴えかける魅力があると思った。エネルギッシュで、正直で、存在感があって、スター性があると思った。」
ビートルズを一目見て、聴いて、ブライアンはすっかり虜になってしまったのでした。

 ビートルズは最高のバンドになると思ったブライアンは、彼らのステージに何度も足を運んで自分の信念に確証を得た後、ビートルズに「お互いに平等なパートナーとして、マネージャーとアーティストとして」契約したいと申し出ます。ブライアンの意思で、この契約は、マネージャーに有利だった当時の一般的な契約とは大きく違った「公正な」契約になっていました。


 ビートルズもブラインの率直な話を聴いて彼に賭けてみようと思い、「ぼくらだってマネージメントされるってどんなことか分からない。とにかく一緒にやってみようよ」と答えます。
 こうして、崩壊寸前だったバンドは新たな目標に向かって動き始めます。

ビートルズが変わった!《ブライアンのマネージメント》

 マネージャーとなったブライアンは猛スピードで仕事に邁進します。ビートルズの出演料は、それまでも地元では高額の方でしたが、それを更に引き上げたばかりか、2度目のハンブルグ巡業の時には、宿舎・食事や移動手段等の待遇面でも大幅に改善させます。


 ビートルズ自身のステージでも「ビートルズの良さがより多くの人に伝わるように」態度や服装等にも拘ります。出番に遅れること等もっての他、ステージでの飲食も御法度になり、高級専門店でビートルズ自身の希望も取り入れながらスーツを新調しました。次週の予定をきれいにタイプで印刷して全員に配り、演奏する曲目も事前に決めてリストを必ず作り、新曲も増やしました。


 因みに髪型は、この少し前から自分たちで前髪を下ろすパリ風のスタイルに変えていました。(ただし、ピートだけは、自分に似合っていると思っていたリーゼントを頑固に続けました)

リンゴといると『これで完璧!』 《1961年12月27日》

 ハンブルグ時代にもその傾向があったピートは、この頃には他の3人とは別行動を取ることが多くなっていました。ステージの後も、ジョン、ポール、ジョージの3人は、しゃべったり飲み食いしたり買い物に行ったりして一緒に行動することが多く、冗談なども言い合っていつも和気藹々としていました。もともと静かなスポーツマンだったピートは、一人で先に帰ったり、逆にステージに遅れて来たり休んだりするようになって、他のバンドのドラマーに代役を頼むこともありました。


 ドラムの技術に関しても問題があり、”MyBonnie”を一緒に録音したトニーシェリダンが言ったように、ビートルズのドラマーとしてのピートには課題がたくさんあったのです。

 1961年12月27日、「ビートルズクリスマスパーティー」の日。体調を崩して休んだピートの代わりに、キャバーンでドラムを叩いたのはリンゴでした。この時、ジョージは「リンゴが一緒にステージに上がった時、これで完璧という感じがした。そうなって初めて実感したんだ。ほんとうにしっくりきてね。ぼくらはみんなリンゴとすっかり仲良しになった」と振り返っています。


 後のデビュー直前のドラマー交代劇には、以前からのこんな背景があったのですね。

ジョージ マーチン 《ビートルズサウンドの生みの親》

 二人目の<5人目のビートルズ>。ジョージ マーチンは、イギリス大手のEMIレコード傘下のパーロフォンレーベルのプロデューサーとしてビートルズのレコーディングを担当して、初期~中期のビートルズサウンドの生みの親とも言える程、非常に大きな影響を及ぼしました。


 マーチンは若い頃にピアノを独習し、軍隊を退役した後には音楽学校でクラシック音楽の基礎を学び、オーボエとピアノを専攻してオーボエ奏者として活動した後、BBC(英国放送協会)の音楽部門で働いたりしました。20代でEMIのマネージャーとなり、当時大人気でジョンやポールも大好きだったコメディ番組をレコード化する等、独自の分野で実績を積んで評価されていました。


 この頃のマーチンは、レコード購買層として新しく台頭していたティーンエイジャー向きの歌手(プレスリーやクリフ リチャード等)の新人を発掘してNo1ヒットを出すことを目指していました。

マーチンからブライアンにレコーディング契約の話 《1962年5月9日》

 1962年の春、ビートルズは2度目のハンブルグ巡業に向かいます。(この時ハンブルグの空港で、アストリットからスチュが前日に死んだことを知らされたジョンはパニックに陥ります。)


 当時ブライアンは何とかビートルズをレコード会社と契約させようと、頻繁にロンドンに出かけていって奮闘していました。(この年の初めにも大手のデッカレコードで15曲ものデモを録音しましたが、極度に緊張したビートルズは自然体でのパワフルな演奏ができず、契約できませんでした)

 そんな失意のブライアンにマーチンから連絡が入り、5月9日にロンドンで会うことになります。


 この日マーチンがブライアンに話したのは、ビートルズとEMI(パーロホン)とのレコーディング契約の説明で、4年間の契約で、1年目に6曲以上録音してシングル盤3枚として発行すること等々、最初の録音日の日程やその目的(一人一人の歌集力を見極めたい)等について話されました。


 ブライアンは大喜びで、当時ハンブルグで巡業中のビートルズ宛に「EMIでレコーディングをするから新曲を練習するように」電報を打ちます。

デビュー曲をアビーロードで録音した、はず!?《1962年6月6日》

 いよいよEMIのアビーロードスタジオでのデビュー曲の録音。この後、ビートルズが傑作を次々と生み出していった伝説のアビーロードですが、最初の出会いはほろ苦いものでした。


 まずビートルズの機材が酷くて中断。他の部屋から機材を運んできて再開し、 “Besame Mucho”, “Love Me Do”, “P.S. I Love You”, “Ask Me Why”の4曲を録音しました。

 最初はあまりやる気がない様子で部屋を出ていたマーチンですが “LoveMeDo”の途中で呼び戻されます。「ビートルズの歌からコード(和音)が聞こえてきたので呼びに行かせた」とはエンジニア。
(後にポリスのスティングも、<”LoveMeDo”のハーモニーの力強さ>を指摘しています)


 戻ってきたマーチンは、今度はジョンのハーモニカのサウンドに惹かれて興味を持ちます。


 録音の後、コントロールルームに全員を呼び寄せてテープを聞き返しながら、技術的なことやマイクの特性、更にビートルズの機材の改善の必要性等々詳しく話した後でマーチンは、何も答えずに黙っているビートルズの面々に「何か気に入らないことがあるのか?」と尋ねます。


 ビートルズの面々はしばらくもぞもぞした後、ジョージが「うん、あなたのネクタイが気に入らない!」と一言。一瞬の緊張の後、部屋の皆が笑い出し、一気に打ち解け始めます。

 「あれが場の空気を一変させて、それからの15分~20分間、ビートルズはひたすら楽しませてくれた。私は笑いすぎて涙を流していた。」とはエンジニアのノーマン スミス。


 この時を振り返ってマーチンは「彼らの音楽ではなく、カリスマ性にずば抜けた才能があると感じた。彼らと一緒にいると自分が幸せだという気持ちにさせてもらえた。音楽は付随的な要素に過ぎないが『自分をこういう気持ちにさせるなら、観客にも同じだろう』と思った」と言います。

 こうして、ビートルズのEMIでの最初のレコーディングは何とか終わりました。

 しかし、それまでに前例がなかったビートルズのようなグループのデビューには、まだまだ長い道のりが待っていたのです。

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 西東京ビートルズ倶楽部(NBC)では、このサイトの内容やビートルズについてのご意見・感想等、お待ちしています。特に<私の1曲>として、<ビートルズの楽曲213曲の中でどの曲が好きか、好きな理由やその曲にまつわる皆さん自身のエピソード等々>は大歓迎です。


 NBCでは、今までにもビートルズ好きの皆さんがリアルで集まって、ビートルズのCDを聴いて語り合ったりビートルズの曲をライブで聴いたりするイベント等も行ってきました。

 「ビートルズのこの曲なら弾ける」とか「演奏してみたい・唄いたい」という皆さんの声がたくさん集まったら、一緒に演奏したり唄ったりする会も企画したいと思っています。

 ぜひメールでご連絡下さい。お待ちしています!

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