ビートルズって、何? 【2】たくさんの出会いと別れ・・・.ここからビートルズは始まった!

西東京ビートルズ倶楽部(NBC)代表 田中敏久

 このサイトでは皆さんと一緒に【ビートルズが残してくれたもの】について語り合い、自分たちの音楽活動や社会の動きをどう思っていたのか、ビートルズや彼らを取り巻く人々とのdynamics(関係性/集団力学)に注目して探ったり、今なお愛されている《ビートルズサウンドの秘密》を考えたりしたいと思っています。たくさんのご意見や感想、どうぞよろしくお願いします!

 前回は、お互いの才能にびっくりした若き日の天才ジョンとポールの出会いをご紹介しました。
今回、二人がThe Beatlesとしてデビューする直前までの様々な出会いと別れを、駆け足で見ていきたいと思います。

【2】たくさんの出会いと別れ・・・。ここからビートルズは始まった!《1957年9月~1960年12月》

 ポールと出会った少し後、ジョンはリパブール美術学校(The Liverpool College of Art)に入学し、ここでとても大切な人たちと出会います。

 まず、後にビートルズの初代ベーシストとなるスチュアートサトクリフ(スチュ)です。
ジョンより学年が一つ上で、学校内でも画家としての才能が非常に高く評価されていたスチュは、ジョンとは正反対の知的で物静かな内向的な性格でした。楽器には興味がありませんでしたが美術や文学などについての話でジョンとは気が合い、スチュの住むガンビアテラスにジョンが一緒に住み始めると、たちまちそこは学生達の溜まり場になっていきました。
(部屋はいつもひどく散らかっていて、真冬に部屋の壁板を剥がして燃やして暖まったこともあり、このことが後に”Norwegian Wood”の歌詞に生かされたように思います。)

 次は、2年目に同じ講座をとったことで親しくなり、最初の結婚相手となったシンシアパウエル(シン)との出会いです。

 名うてのテデイボーイ(不良)と見られていたジョンとは生まれも暮らしぶりも全く違う、上品で物静かな性格の真面目な学生だったシンですが、ジョンにからかわれている内にいつしか惹かれるようになり、二人は互いに深く愛し合うようになりました。そして、シンから(息子ジュリアンの)妊娠を告げられたジョンは、デビュー直前でしたが結婚を決意し、一緒に暮らし始めます。

 結婚前からポールやジョージとも仲が良かったシンですが、ジョンを兄のように慕っていたジョージが二人のデートにまでくっついてきて、シンに煙たがられていたようです。
(ポールがこのジュリアンのために”Hey Jude”を作ったというお話はもう少し後で・・・。)

 次に、いよいよビートルズのもう一人のギタリスト、ジョージハリスンとの出会いです。

 実はジョージは、ポールがジョンと出会う前からの音楽仲間の一人でした。ポールより9ヶ月年下だったジョージは、兄弟や親の影響もあって早くからギターに熱中していて、ポールと同じ高校(The Liverpool Institute High School for Boys)に同じバスで通っている間に音楽やギターの話から仲良くなっていったようです。
ジョンのバンド、QarryMenで活動するようになったポールが、バンドを音楽的に充実させようとして「ぼくより上手いギター弾きがいる」と紹介したのがジョージでした。
 

 自分より2学年下のポールより更に若く、見た目も子どもっぽいジョージをバンドに入れるかどうかジョンは迷ったようですが、ジョージが知っていたたくさんのコードやギターテクニックが決め手となりました。学校帰りのバス亭かどこかで、当時流行り始めていた”Raunchy”という曲を弾いてみろとジョンに言われて何度も弾き、「よし決まり!」となったとジョージの話。

 ジョンに嫌みを言われても直ぐに言い返すことができる頭の回転の早さや服のセンスもバンド仲間として認められる重要な点でした。

 ポールの時もそうでしたが、ジョンはバンド活動に関しては、自分のリーダーとしての立場がどうなるかよりは、「バンドでいい音を出したい」という思いの方が強かったと言えるでしょう。
実は、ポールとジョージが通っていた高校はジョンの美術学校とは隣同士で、中庭に面した2つの扉で繋がっていました。二人は高校が昼休みになるとギターを持って美術学校に行き、空き教室にもぐり込んで3人一緒にバンドの練習をするようになりました。

 メンバーがたくさんいた時期もあったクオリーメンですが、音楽に対する感性・熱意や技術の違いもあって、結局この3人のバンドになっていきました。

 お互いの家や学校で一緒に練習に励み、学生向けパーティーやパブ・クラブ等でのライブもしながらバンド活動に熱中していた頃、大きな悲劇がジョンを待ち受けていました。

生母ジュリアとの2度目の永遠の別れ 《1958年7月15日》

 実はジョンが生まれてから暮らしていたのは、生母ジュリアの姉、ミミ伯母さんの家でした。

 ビートルズの他の3人とは違って、この家は比較的裕福な(身分の違いがはっきりしていた当時のイギリスでは中流階級とされていた)人たちが住んでいる地区にありました。

 ジョンの父親アルフレッドレノンは世界中を航海する船のボーイか何かで、ジュリアがジョンを妊娠していた時も、海の上で行方が分からず、ジョンの名前もミミ伯母さんがつけてくれました。
(ジョンが5才の頃、突然アルフレッドが現れてジョンを引き取ろうとしたことがあり、ジョンは泣きながらジュリアの後ろ姿を追いかけていった、という悲しいできごとも。)

 実子がなかったミミ伯母さん夫婦はジョンを大切に育ててくれ、服装や本等にも恵まれていましたがしつけは厳しく、ロックンロール(R&R)に憧れる不良でトラブルばかり起こしていたジョンは、いつもミミ伯母さんにきつく叱られていたようです。(ただ、愛情はしっかり伝わっていたようで、ジョンは成功してからもミミ伯母さんと連絡を取り合い、プレゼントしたりしていました。)


 ジュリアは、ジョンがギターを覚え始めた頃にバンジョーのコードを教えたりしていましたが、バンド練習に熱が入るようになった頃にもジョンの音楽活動を熱心に応援してくれました。

 新しい夫と二人の子どもと住んでいたジュリアの家でもよくバンドの練習をするようになり、最良の響きを得ることができるバスルームはかっこうの練習場所となりました。

 ジュリアはジョンにとっては心を許せる物わかりのいい姉のような存在でしたが、14才で母をガンで亡くしていたポールにとっても、明るく開放的で美しい憧れの女性だったようです。

 こうして、ジョージと3人で練習するようになってからしばらく経った頃、悲劇は起きました。
ジョンがミミの家を留守にしていた夏の日の夕方。ミミを尋ねてきたジュリアは、家を出た直後に、仮免許中だった非番の警官が運転する車にはねられ、即死してしまったのです。

 大好きだった伯父さん(ミミの夫)を3年前に亡くしていたジョンにとって、最愛の母ジュリアの事故死のショックは本当に衝撃的で、「オレは母を2度失った」とか「本当につらい時期で、お陰ですっかりトゲのある人間になってしまった。もの凄く深い心の傷だった。」等と語っています。
(逆に、既に母親を亡くしていたポールとの心の繋がりは深まり、少し前から始まっていたチーム・レノン=マッカートニーでの曲作りも再開し、デビュー後も長く続いていきます。)

プロ目指してオーディションを受けまくり、ハンブルグへ巡業に!《1959年9月~1960年12月》

 ジョンが母の死から立ち直り始めていた頃、ポールやジョージの働きもあって、バンド演奏の機会が増えてきました。

 この頃はまだドラムもベースもいなくて、3人交代で唄ったり一緒に唄ったりしていましたが、後にドラムを担当するピートベストの母モナが、自宅地下を改造して息子達のために始めたカスバクラブで毎週日曜日に演奏して、次第に人気が出るようになってきました。

 このクラブにはリンゴスターのバンドも時々出演していてお互いの演奏を聴いていました。(リンゴのバンドは、この後地元で一番の人気となります。)ピートがドラムを始めたのもこの頃です。
楽器は全くだったスチュが、ジョンの強い勧めで、初めて高く売れた自分の絵の代金をつぎ込んでベースを買ってビートルズの初代ベーシストとなったのもこの頃です。(後にポールが使って有名になったのも、型は違いますが、同じドイツのHofner社のベースです。)

 スチュは懸命に練習しましたが直ぐに上達するものでもなく、弾いている所を見られまいと横を向いたりサングラスをかけて演奏したりしているのにジョンに大事にされていると思って、ポールはスチュに批判的でした。ジョンに対する嫉妬もあったようです。

 さて、バンドはこの頃、ジョンがとっくに卒業していた高校に由来する名前を止めて新しい名前を模索しながら、プロとして活動するべくいろいろなオーディションを受けまくっていました。
TV番組の出演バンドやソロ歌手のバックバンド等々、色々なオーディションを受けてかなりいい線まで残った時もあったようですが、ドラマーもいないR&Rバンドには十分な出演料を得られるレギュラーの仕事はなかなかありませんでした。
(この頃のバンド名には Johny&The Moondogs、LongJohn&The SilverBeetls、The SilverBeatls、The Beatals等がありました。)

 1960年の春には、ジョニージェントルというリパブール出身の若い歌手のバックでイギリス北部のスコットランドを回る巡業の仕事が入り、臨時のドラマーも頼んで、The Silver Beatlsとして勇んで出かけて行きました。この仕事は、リパブールでR&Rのライブやライブスポット(クラブ)等の仕事を新しく始めようとしていた、コーヒークラブジャカランダの経営者でスチュの友人でもあるアランウイリアムズのブッキングでした。
観客からサインを頼まれたりプロ歌手のジェントルの自作曲にメロディーを提供したりと、いい時間もあったようですが、現地の宿や食事の手配等も酷かったですし、ジェントルが運転していたバンの事故でドラマーが歯を折る等、残念なことも多かった最初のツアーでした。

 その後ドラムも交代し、名前もThe Beatlesに落ち着いたバンドは、ジャカランダを拠点にウイリアムズに車で送ってもらいながら活発に活動し<R&Rをハーモニーをつけて唄えるバンド>としてダンスパーティーやクラブ等での定期的に演奏を続け、地元の新聞等に名前が出たり固定フアンもでき始めました。(結局このドラムは軍隊に入って1ヶ月位で止めてしまい、しばらくポールが叩いていました。)

 そしていよいよこの年の8月、ドイツのハンブルグでの長期巡業の仕事が回ってきました。

 今までよりもギャラがいい仕事でしたが、ドラムを入れて5人編成のバンドという条件だったので、たまたま仕事がなかったピートに声をかけて形ばかりのオーディションをし、ウイリアムズが運転する車に荷持つを詰め込んで、2ヶ月間の予定の巡業に意気揚々と旅立って行きました。

 ハンブルグで待っていたのは厳しい現実で、ビートルズに与えられたのは、映画館のトイレの横の汚くて暖房も物入れもない小部屋で、洗面所はそのトイレという有様でした。

 それでもビートルズは一日中音楽できる喜びを感じながら、以前からの「他のバンドもうっとりする程のハーモニー」を武器に、新しいレパートリーもどんどん取り入れて、船乗りや軍人等の酔っ払いを相手に、店側から求められたパワフルで派手なステージを繰り広げて行きました。

 店の支配人から「マックシャウ(ショーをやれ)!」と怒鳴られていたバンドは、床を踏みならして飛び跳ねたり、マイクを振り回しながらステージ狭しと動き回り、観客に大受けでした。

 喜んだ客からのビールやタバコの差し入れもよくあり、バンドはステージ上でも平気で飲み食いし、時には一日5~6時間の長時間演奏の疲れで眠ってしまうこともあったようです。逆に、風邪薬や痛み止め等の薬に覚醒剤の成分が入っていることを教えられ、薬の力で目を覚ましながら演奏することもあったようです。

 ビートルズは10月からは新しい店でリンゴスターのRory Storm&The Hurricanesと交代で演奏することになり、ここでも新たな出会いがありました。

 半年程前まではハリケーンズがリパブールのNo1バンドでしたが、リンゴがハンブルグで再会したビートルズは衝撃的でした。「ビートルズは素晴らしかった。本当にうまかった。見事なロックだった。毎回、ぼくらは奴らより素晴らしいショーを見せようと努力したんだ。」とリンゴ。
(後にリンゴはビートルズに頼まれて、交代時間になっても出てこないピートの代わりにドラムを叩いたこともあり、ジョンは後に「リンゴの演奏スタイルが気に入っていた」と話しています。)
ビートルズをハンブルグに連れて行ったウイリアムズも、この頃のビートルズを観て目を見張り、「今やビートルズはリパブールのNo1バンドになった。」とメンバーに告げたのでした。

 この頃、もう一つの劇的な出会いがビートルズに訪れます。

 バンドの音に引き寄せられて偶然店に入ってきた、アートスクール出身の若いドイツ人クラウスフォアマンは、ステージに現れたビートルズのかっこよさや素晴らしい演奏に釘付けになります。「あんまり心躍るステージだったから、彼らから目が離せなかった。」とフォアマン。

 店を出て直ぐ、口喧嘩をしていた友達のアストリットキルヒヘアの所に行って「絶対観るべきだ。ただただ素晴らしい!」と夢中になって誘い、同じく友人のユルゲンフォルマーと3人で見に行きます。店に場違いな3人は隅っこの席で懸命に聴き入り、拍手喝采せずにいられませんでした。ビートルズの演奏や店のエネルギッシュな雰囲気に感動していた二人でしたが、何とアストリットはステージのスチュに心を惹かれ、「一目で恋に落ちてしまった」のでした。

 その後二人は、言葉の壁をものともせずに互いの芸術家的感性に導かれて愛を深め合い、将来の結婚を誓います。アストリットは、写真家としての才能を発揮してこの時期のビートルズの貴重なポートレイトやバンドの写真をたくさん残してくれました。
(クラウスも、後にアルバム”Revolver”のジャケットをデザインしたり、ベース奏者としてジョンのソロアルバム”Imagine”等で活躍します。また、ユルゲンは少し後にビートルズのヘアースタイルを変える重要な働きをしたり、この頃撮った写真が後にジョンのソロアルバム”Rock’N’Roll”のジャケットに使われる等、彼らとの出会いは後々までビートルズと繋がっていきます。)

 こうして、順調にR&Rバンドとして成長していたハンブルグのビートルズでしたが、栄光の日々は、思いもかけず急速に終わりを迎えます。

 店のオーナーから、「ジョージが未成年で店で演奏する資格がないことが国に知られてしまった」ことを理由に、予定よりも1ヶ月も早く契約打ち切りを告げられたのです。

 以前からこのオーナーは、言うことを聞かないビートルズの態度を快く思っていなかったようですが、この頃ビートルズがライバル店に出入りして、そこに出ていた歌手のトニーシェルダンと勝手に共演してステージに立ったりしていたこと、更にはこのオーナーとビートルズのマネージャーだったウイリアムズとの関係がこじれていたことなど幾つかの背景があるようです。
(ビートルズはこの後2度ハンブルグを訪れてこのライバル店に出演し、そこでの録音も残されています。)
一人淋しく去って行くジョージを見送った後で、今度はポールとピートがオーナーから放火の疑いで訴えられて結局飛行機で国外退去となってしまい、ひっそりとリパブールに戻りました。

 最後に残ったジョンは、トニーと一緒にステージに立ったりしていましたが、やがてギターを手にアンプを背中にしょって、一文無しになって打ちひしがれてミミの家にたどり着きました。

 こうして、明るい巡業への期待で始まった1960年は、ハンブルグでの貴重な経験を残しながらも、失意と絶望のどん底に沈んだまま幕を閉じていきました。

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