西東京ビートルズ倶楽部(NBC)代表 田中敏久
好評頂いている【ビートルズって、何?】では、自分たちの音楽活動や社会の動きをどう思っていたのか、ビートルズや彼らを取り巻く人々とのdynamics(関係性/集団力学)に注目しながらたどっています。
前回【10】、それまでイギリス人が誰もできなかったアメリカでのNo1を遂に獲得して人気が爆発し、TV番組で前代未聞の視聴率を上げる等ものすごい旋風を巻き起こしていきました。
そして今回、新たに挑戦した映画も世界中で大ヒットし、同名タイトルのアルバムも絶好調で売れ続けます!
たくさんの皆さんの感想やご意見、どうぞよろしくお願いします。

初めての主演映画”A Hard Day’s Night”の撮影 《1964年3月2日~4月24日》
さて、ビートルズの映画撮影が実際に始まったのは、アメリカから帰国して10日も経っていない3月2日のことでした。
因みにこの映画は、低予算だった割には時代性をとらえた優れた芸術作品として高い評価を得てこの手の映画の古典としての栄誉を受けることになります。それまでは全く無名だったこの映画の監督リチャード レスターもまた、ブライアンやマーチンのようにビートルズを素材とすることで、その才能を発揮することができた人物だったようですね。(それとも、これもまたビートルズの強運の賜なのでしょうか?)
ところで、ジョージより2才年下で後に彼の最初の奥さんとなるパティ ボイドがジョージに初めて会ったのはこの映画の撮影初日でした。女子学生役で起用されたパティが列車の中でポールに話かけられたりジョージの髪の毛を切ったりするシーンは有名ですね。
(ロンドンの売れっ子モデルでTVコマーシャルでも人気を得たパティは、レスターがそのCMの監督だったことからこの映画に起用されたようです。パティを巡っては、後にギタリストでジョージの親友だったエリック クラプトンとの間での数年間に渡るバトルの話やエリックの”Layla”やジョージの”Something”等の曲を捧げられたことでも有名ですが、その話はまた後で。)
この映画では、メンバー4人のツアー中の生活が疑似ドキュメント風に自然なタッチでつづられていますが、中でも特に役者としてのリンゴの才能が評価されることが多いようですね。
この少し前からEMI(アビーロードスタジオ)のエンジニアとしてビートルズのレコーデイングに関わり始めていたジェフ エメリックは、自著の中でこの映画の感想を次の様に語っています。
「総じて”A Hard Day’s Night”は楽しめる映画だった。・・・当のビートルズは4人のステレオタイプとして描かれていて、「ほんとの彼らはこんなんじゃない」とひそかに思ったのは覚えている。・・・ビートルズの4人、特にジョンは自分達の役柄をかなり皮肉っぽく演じていたように見えたけど、劇中のリンゴがカリスマ的な存在感を発揮しているのに驚いた。それまでただのドラマーとしか思っていなかったぼくは、彼もやはりグループに欠かせない存在なのだと認識を改めた。」
また、この映画でビートルズと一緒に旅するポールのお爺さん役(リンゴにバンドを見捨てろと言う)で共演した役者は次の様に語って、彼らの演技に対する取り組み方に感心していました。
「ビートルズの曲は好きだったけど、僕のような人間が彼らと溶け込めるだろうかとても心配でした。ところが、ビートルズの冷静で厳しい取り組み方にすっかり驚きました。」
こうして、映画という新分野に挑戦して見事に成功を収めたビートルズは、本業の音楽でも世界中で大ヒットを連発し始めていました。
アメリカのヒットチャートの1位から5位までを独占!《1964年4月4日》
1月にパリでのツアーの最中に4テイクで録音された”Can’t By Me Love”と2月にアビーロードで9テイクで録音された”You Can’t Do That”のカップリングは、ビートルズの6枚目のシングルとして3月20日に発売され、発売されたほとんど全ての国でNo1ヒットとなりました。
アメリカでは予約注文が210万枚となって発売当日にゴールドディスクになり、イギリスでも予約だけで100万枚を超えました。
この後、ビートルズはアメリカで、4月4日付けのビルボードのヒットチャートの1位から5位までを独占するという快挙を成し遂げます。
1位”Can’t Buy Me Love”、2位”Twist & Shout”、3位”She Loves You”、4位”I Want To Hold Your Hand”、5位”Please Please Me”というのがその結果です。
(トップ100の31位、41位、58位、65位、79位にもランクインしていました。)
実はこうなったのは、アメリカのEMIの系列会社だったキャピトルが、ブライアンやマーチンが何度もアタックしたにもかかわらずに、ビートルズのシングルの発売を拒否していた!?ので、やむを得ず規模の小さなレーベルから発売していたからなのです。
翌週には、更に2枚のシングルを加え、アルバムチャートでも1位、2位にランクインします。
4月以降はキャピトルも考えを改めて、ビートルズのレコードを統一的に販売するようになり、続々とアメリカ版のビートルズのレコードが発売されるようになります。
(実はこの頃、同様のことが世界中の国々でも起き始めていて、オーストラリアでも4月3日のシングルチャートの1位~6位をビートルズの曲が独占していました。)
3rdアルバム”A Hard Day’s Night”のレコーデイング 《1964年2月~6月》
最終的には1964年7月10日にイギリスで発売され、全世界で膨大な枚数を売り上げることになるこのアルバムは、初期ビートルズの最高傑作だと言われることもあり、非常に中身の濃い作品だということは異論のないとことではないでしょうか?
少なくとも、後にも先にもビートルズの全アルバムの中で唯一の全曲レノン=マッカートニーのオリジナル曲のアルバムだということは、一つの時代を象徴していることは間違いないと言えるでしょう。
この頃のビートルズのレコーデイングの様子について、前述のエメリックは言います。
「彼らがぐっとプロらしくなったのを見て、ぼくはとても感心した。演奏がより引き締まっていただけではなく、スタジオでのふるまいもすっかり歴戦のベテランらしくなり、たっぷり油を差したマシーンのように、効率よく自分達の求める音をものにしていた。」
けれども、実はこのアルバムの録音では、ビートルズの面々が知らないところで、とんでもない嵐が吹き荒れていたのでした。
「その朝はそこ(コントロールルーム)に、映画を監督したリチャード レスターが加わっていた。~それも明らかに、招かれざる客として。・・・レスターが不適切な振る舞いをしているのは明白だった。専門外の分野に口をつっこみ、しょっ中ジョージ マーチンと角つき合わせていたからだ。」
「ジョージ(マーチン)はいつものように礼儀正しい態度を崩さなかったものの、内心で苛立っているのことが手に取るように伝わってきた。」
ということで、紆余曲折がありながらも演奏面では非常にスムースに録音は進んで行ったようですが、この映画のタイトル曲としてジョンが一晩で書き上げてきた”A Hard Day’s Night”の録音でも興味深い場面がありました。
「レスターがこだわったのは、映画の冒頭に「とにかくインパクトのある何か」がほしいということだった。~こうして、曲の冒頭に、ジョンとジョージが弾き下ろす、激しいギターコードが配されることになる。」
「次はいよいよジョージ ハリスンのソロだった。・・・ジョージはいくらやっても、そのソロをものにできなかったのだ。最終的には、マーチンが・・・音の外れたピアノでギターソロをなぞり始めた。ただし、(テープの)空きトラックは一つしかなく、二つのパートを別々に録ることはできない。そこで、二人のジョージ~ハリスンとマーチンはスタジオで横並びになり、額にしわを寄せ、それぞれの楽器に集中しながら、リズム的に込み入ったソロをタイトなユニゾンで演奏した。それは、何とも興味深い眺めだった。」
レスターから最後に出された、映画の冒頭のシーンに繋ぐための「ドリーミーなフェイドアウトがほしい」という要求には、ジョージがイントロのコードを活かしたアルペジオを12弦ギターでスピードダウンしてダビングし、しっかり応えることができました。
ところで、この<Hard Day’s Night>というタイトルは一体誰が考えたのかということが、よく問題になります。このことについてジョンは、生前最後のインタビューで次の様に語っていますが、どうもこれが一番事実に近いように思われるのですが、如何でしょうか?。
「車で家に帰る途中で、ディック レスターが前にリンゴが口にした言葉をヒントにして”A Hard Day’s Night”というタイトルを提案したんだ。ぼくも同じフレーズを自分の本で使っていたけどね。あれは、リンゴが何気なく口にした言葉だよ。で、次の日の朝にぼくは曲を提供したのさ。」
この2月に録音されたのは、ポールの初期のバラードとして有名な”And I Love Her”や、ジョンの曲で、”This Boy”の発展とも言われジョン・ポール・ジョージの3人のハーモニーが非常に美しい”If I Fell”、ジョンがジョージのために書いた”I’m Happy Just To Dance With You”、ポールの脅威的な高音シャウトが聴ける”Long Tall Sally”(EPに収録)等々、この時期のビートルズの実力がしっかり反映された名曲・名演が目白押しに並んでいます。
このアルバムのA面は、映画のサウンドトラックとして使うために映画の撮影と平行してレコーデイングされていて4月中にはビートルズの録音は終わっていました。6月になって映画完成後の休暇から戻ってきたビートルズの面々は、残りのB面の曲のレコーデイングに取り組みます。
この時にも、ジョンの”Any Time At All”・”I’ll Be Back”やポールの”Things We Said Today”等、後のビートルズの作曲に繋がるメジャーとマイナーの扱い方が聴かれる特徴的な曲が録音されています。
イギリスでは、7月10日に発売された5日後にNo1になって21週間トップを維持し続け、アメリカ版バージョンは、トップは14週間でしたが、史上最も速く売れたアルバムの一つとなりました。

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【NBC イベント情報】
《トーキング ビートルズ》セッション~CDをしっかり聴いて、deepに語り合おう!
*2024年2月4日(日)午後1時~3時 ※申込は直接会場へ(web申込あり)
<杉並区立井草区民センター>2階第1・2集会室 ☎:03-3301-7720
杉並区下井草5丁目7−22 (西武新宿線井荻駅南徒歩7分)
★小学生から70代の第1次ビートルズショック世代まで、汲めども尽きぬ魅力でタイムレスに
輝き続けるビートルズ。そのサウンドの秘密を語り尽くす<参加型トークセッション>
★【要事前エントリー】語りたい<私のビートルズの1曲>(曲名と話の概要)をご準備下さい。
【皆さんのお便りから】
先月行われた西東京ビートルズ倶楽部のイベントのレポートを、倶楽部の会員の方から送っていただいたのでご紹介します。
往年のビートルズフアンの桑原亘之介さんが、去る11月25日(土)に西東京市の<音楽cafe/森のこみち>での《トーキング ビートルズ セッション》のレポートをご自身がNoteで連載しているコラム欄で紹介してくれました。(ご紹介を快諾していただいた、桑原亘之介さん、本橋圭一さん、杏珠さん。ありがとうございます。)
ここではさわりの部分を一部ご紹介します。ぜひ、元の全文や他の記事も読んでみて下さい。
ー西東京ビートルズ倶楽部|桑原亘之介 (note.com)
・・・田中さんは次のように解説した。「ヘレン・シャピロがメインのツアー中でしたか、無理やり一日空けて、わずか一日で録音したアルバムが『Please Please Me』なんです。スタッフがランチに行くと言っても、4人は残って牛乳を飲みながら作業を続けました。ロック魂満載のアルバム」。
次に「She loves you」をみんなで聞いた。「これはもう完璧な曲。一番完璧だと思います。ジョンとポールのハーモニー、ジョージのギター、リンゴのドラム。73年、小5の時にEdwinのCMでこの曲のカバー曲が流れるのを聞いて衝撃を受けて、それ以来ビートルズファンになりました。今年の赤盤のこの曲は少しくぐもっているなと思いました」との意見も。
本橋杏珠さんは「エヴリーブラザースなんかに影響を受けているんだろうけど、ビートルズ自分たちのサウンドになっていますね」と話した。杏珠さんは小学生5年生で現在11歳、お父さんの圭一さんと参加した。(中略)
最後はビートルズ時代のジョージの代表曲の一つ「While my guitar gently weeps」。
本橋圭一さんは「娘と映画「Concert for George」を観に行って、いい歌だなって思いました。エリック・クラプトンも好きだし。ビートルズでジョージが歌っているのは珍しいけど、その中でも特にいい曲」と述べた。
杏珠さんは「『Anthology3』のアコースティックギターのが美しいからいい」と通な意見を開陳した。
続けて「Nowhere Man」がかけられた。
ここからはライブコーナーとなり、田中さんと篠塚さんがNBCの(※ビートルズ倶楽部バンドの)テーマ曲「We are the Beatles Club Band」でスタート。
「I’ll be back」が歌われたが、その前に田中さんは「メジャーとマイナーが行ったり来たりする特徴的な曲作りをしています」。
続く「Norwegian Wood」には杏珠さんも参加した。
最後はまた2人になって「間奏のピアノを無理やりギターでやろうっていう無謀な挑戦」(田中さん)だと言って「In my life」を演奏した。およそ2時間の地元のビートルズファンの集いは幕を閉じた。
