「好きな本の心に残った『1行』を、その『思い』とともに投稿する」という西東京市図書館の企画「あの本の、この1行」が、各館巡回で展示されている。小学生から大人までの投稿が紹介されており、ネットでも見られる(※リンク先こちら)。
最初は気軽にネットで見ていたのだが、興味深くて、つい真剣に読み込んでしまった。知らない本が多い。同時に、やはり文豪と呼ばれる人たちの一文には、刺すような凄みがあるのを痛感した。芥川龍之介「下人の行方は誰も知らない」。いやぁ、スゴイね。ヨシタケシンスケさんの人気ぶりにも驚いた。
こういう企画は、本への関心を呼び起こす。素晴らしい企画だと思う。
さて、こうなると自分の場合はどうか――と思案を巡らせるのが自然の流れだが、私の場合は問答なく井上靖作品になる。ただし、どれも素晴らしすぎて1文を選ぶのは難しい。必要もないのにウンウンと一人悩んだ結果、『おろしや国酔夢譚』の中の「外へ一歩踏み出したところで、小児のように泣き叫ぶ庄蔵の声を聞いた」に落ち着いた。
これをこの紙幅で説明するのは難しい。同作は江戸時代に難破し、ロシアに漂流した17人の運命を描いた史実に基づく小説で、10年ほど後に3人が帰国する。前文は、凍傷で足を切断し、ロシア正教に帰依した庄蔵に別れを告げる場面。異教徒になった庄蔵は帰国できないことを知っており、船頭の大黒屋光太夫を毅然として見送る。その心情が突如崩れる様を、「小児のように」のわずか6文字が言い切っている。
やっぱスゴイよ、井上先生!――と当初は思ったものだが、種本があることを知って少し考えが変わった。漂流体験を直接聞き取った『北槎聞略』で、そこにはこう書かれている。「庄蔵は叶はぬ足にて立ちあがりこけまろび、大声をあげ、小児の如くなきさけび悶へこがれける」。この激しい一文をあえて静寂に描く井上作品。どちらも味わい深い。そして、作家の想像ではなく、事実が物語ったことの重みに感じ入る。
[リンク]
◎西東京市「あの本の、この1行」