ビートルズって、何? 【12】《くたびれ果てていた?!ビートルズ》

西東京ビートルズ倶楽部(NBC)代表 田中敏久

 好評頂いている【ビートルズって、何?】では、自分たちの音楽活動や社会の動きをどう思っていたのか、ビートルズや彼らを取り巻く人々とのdynamics(関係性/集団力学)に注目しながらたどっています。


 前回の【11】、新たに挑戦した映画も世界中で大ヒットし、同名タイトルのアルバムも絶好調で売れ続けたビートルズ。

 今回は、初の海外ツアーや大規模な北米大陸でのツアー、イギリス国内でのツアー等々。そのツアーの合間をぬって休日返上でレコーデイングしたシングルやアルバムが世界中で大ヒットする多忙な日々に、少々くたびれたような顔をしたビートルズです。

 たくさんの皆さんの感想やご意見、どうぞよろしくお願いします。

初めてのワールドツアーは、いきなりリンゴ抜きで始まった!《1964年6月4日~30日》

 デビュー以来働きづくめだったビートルズの面々は、映画の撮影やアルバムの録音が一段落した5月の初めから1ヶ月弱!の間、変名を使ったりカップルが別々の飛行機に乗って移動したりして隠密行動をとりながら、プエルトルコ~ホノルル~タヒチを旅行して、短い休暇を楽しみました。


 束の間の休暇の後には、6月4日からデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る1ヶ月間のツアーが待ち構えていました。


 これは、それまでに顔を見せたことがないエリアを回る、アメリカを制覇したビートルズとブライアンにとって次の大目標となる初めてのワールドツアーでした。

 ところがここで、デビュー以来の大事件が起きます。


 ツアー前日の3日に、リンゴが扁桃腺炎と喉頭炎で倒れて緊急入院してしまったのです。


 後述するように固い絆で結ばれていた四人。中でもジョージがリンゴ抜きのツアーに強硬に反対し「リンゴが行かないのなら自分も行かない」と言い出します。しかし、前日では今更キャンセル等できる筈もありません。


 困ったブライアンとマーチンはジョージを説得しながら、苦肉の策として、セッションドラマー等として前に使ったことがあり、ビートルズのカバーレコードも録音していたジミー ニコルに電話をかけます。(ジミーは、丁度昼食後に一休みしていたところだったようです。)


 マーチンは、「リンゴが病気なんだ。君に明日からビートルズと一緒にオーストラリアに行って、代役を務めてもらいたい。今日の午後3時にアビーロードスタジオに来てくれ。何曲か合わせたいと言っている。」とたたみかけます。ジミーはこの話を受けて、早速アビーロードに向かいます。


 ジミーは、スタジオでのビートルズとの最初の出会いを「楽器は用意してあって、ぼくはリンゴのドラムのところに陣取った。僕たちは5曲をリハーサルした。楽譜は持っていなかったが、ぼくは曲を覚えていたから問題はなかった。ジョンとジョージは『ここはこういう風にして』とか『ぼくらは、これはこんなふうにやる』といったことを少し言った。」と振り返ります。そして・・・。


 「スタジオに着いて2時間後、ぼくはデンマーク行きのために荷物をまとめるように言われた。」


 こうしてビートルズ初のワールドツアーは始まり、デンマーク~オランダ~香港ではジミーがドラムの前に座り、15日のメルボルンからはリンゴが復帰して大歓迎を受け、30日までのツアーを無事に終えました。


 ジミーはビートルズとのツアーを振り返って「ビートルズは、みんなとても親切だった。彼らはすぐにぼくを受け入れてくれ、ぼくが居心地がよくなるようにしてくれた。」とは言います。


 それでも、「彼らには自分達の雰囲気があって、独特のユーモアのセンスがある。小さな排他的な集団で、部外者は入っていけない。ぼくらはいい友達になるには十分な程一緒に長く働いた。どの瞬間も楽しかったけれど、やってみた後の感想は、ビートルズには二度となりたくはない!気が狂いそうだったよ!」と、最後には思ったようです。


 ポールも、「もしリンゴの病気がずっと続くようであれば、ビートルズは解散していたよ。もし、ぼくらの一人が抜けたら、バンドは解散だ!リンゴなしでは気が滅入るとぼくらは思った。ぼくらは、絶対に三人のビートルズでの演奏なんかはしない。ジミーはいいやつだけど、リンゴではない。ぼくらが恋しいのはリンゴなんだ。」 と、この時の気持ちを振り返ります。


 ジョン・ポール・ジョージ・リンゴでの”The Beatles”としてのプロデビューから2年近くが経ち、イギリス国内やヨーロッパでのツアー、そしてアメリカでのデビュー等を経て、この頃の四人の間の繋がり・絆は、相当に深くなっていたようです。


 非常に興味深いことに、このジミーと同じようなことをこの頃からビートルズのレコーデイングに参加するようになったEMIのエンジニアが感じていたのです。


 前号でもご紹介した、少し前からEMIのアビーロードスタジオで働き始め、後期の作品群のサウンドメイキングで重要な役割を果たすエンジニアのジェフ エメリックは”Beatles For Sale”をレコーデイングしていた頃のビートルズの四人の繋がり=関係性について、次の様に言います。


 「(最初期の頃から、真のアーティストと言えるのは、ビートルズではなく、ジョン レノンとポール マッカートニーだとぼくは思っていた。)にも関わらず、グループの間には、ほとんど神秘的とも言える絆があり、それはしばしば、ニールとマル※にも及んだ。」(※【9】号を見て下さい。)


 「その絆は、EMIのスタッフには(ジョージ マーチンですら)どうしても敗れない壁をつくり上げた。」


 「ひとり一人のビートルズを相手にするのは、それ程難しいことではない。いや、例え彼らのうちの二人、あるいは三人と同じ部屋にいても、そんなに苦労させられることはないだろう。ところが、四人全員がそろうと、彼らは一気に結束を固め、ぼくらをシャットアウトしてしまう。まるで、ぼくらには入会が許されない、秘密クラブのようだった。」


 「その結果、彼らとの仕事は、しばしば奇妙な感じになった。確かにエキサイティングでワクワクする・・・けれども、とにかく普通とは違っていて、慣れるまでにはしばらく時間が必要だった。」


 やはり、この頃の四人の繋がりは相当深いものだったようですね。

ツアーの合間にシングルとアルバムを平行録音 《1964年8月11日~10月26日》

 前作”A Hard Day’s Night”の発売日から丁度1か月が過ぎた8月、ビートルズは次の作品のレコーデイングに取りかかります。


 因みに、この1か月にはイギリス国内のリゾート地での夏季公演(7月16日~8月16日)があり、8月19日~9月20日の1か月間にはアメリカ・カナダでの本格的な北米ツアーをはさみ、10月3日~11月25日にはイギリスの全国ツアーで、27か所を33日間で周りライブが54回という、脅威的どころか殺人的なハードスケジュールをこなしながらのレコーデイングだったのでした。

 この頃のビートルズを振り返って、マーチンは言います。

 「彼らはくたびれ果てていたんだ。何しろ1963年から64年の1年間、メチャクチャにこき使われていたんだからね。成功するのはすばらしいことだけど、とても疲れるものでもある。とにかく働きづくめだった。(このアルバムは私にとってあまり魅力的なアルバムじゃない。それ程印象に残っていないね。このあと元気を取り戻した四人の活躍振りはすごかった。)」

 そんな、多忙な日々を反映したかのようなくたびれた様子のジャットの写真をよく見ると、4人が首に巻いている黒いマフラーが気になります。「黒いマフラーで繋がれて疲れた顔をしたビートルズの四人は、まるで鎖で繋がれた囚人達のように見える」と言ったら言い過ぎでしょうか?

 そして、アルバムタイトルの”Beatles For Sale”も、「4枚目」の意味の”Four”と「売り出し中」という意味の”for Sale”のダブルミーニングだとは分かりますが、「どうせおれたちは売られた身なのさ」とでも言いたげな、投げやりな感じがすると言ったら・・・?

 そんな想いを強くさせるのが、このセッションでで最初にレコーデイングされたのがジョンとポールが「初めて一緒に書いたワルツだ」と言っている、3曲目の”Baby’s in Black”という曲だということです。(ワルツの3/4拍子と言うよりは6/8拍子の曲ですが。)

 この曲名を普通に訳すと「(若い)彼女は黒い服を着ている」というような意味だと思いますが、ビートルズにとって「黒い服を着た(若い)女性」と言えば、そう、ハンブルグで衝撃的な出会いをし、後にスチュ(サトクリフ)と深く愛し合いながら悲劇的な死別を迎えたアストリット キルヒヘアです。

 「黒い服を着て、黒が基調の部屋で暮らしていた女性」こそ、アストリットでした。※【2】参照。

 彼女やその友達だったクラウス(フォアマン)たちこそ、酔っ払いや荒くれ者達相手の日々を送っていたハンブルグ時代のビートルズの音楽的価値をいち早く理解し、精神的にも物質的にも絶大な支援者となってくれていたのでした。

 デビューして2年近くが経ち、イギリスどころか世界中でヒットレコードを連発するようになって、「エルビスを超える」と言っていたことが現実となろうとしていたこの頃、成功とは裏腹に人気が出ることによってもたらされた不自由な境遇を、未来の自分達の成功を夢見ていた頃としみじみと比べていたのかもしれない、こんなことも考えすぎでしょうか?。

 同様にジョンが書いた1曲目の”No Reply”や2曲目の”I’m A Loser”も、どちらかと言うともの悲しさ・むなしさが滲み出るような曲のように思えます。

 勿論それぞれの曲には、歌詞のストーリー性やボブ ディランからの影響等が高く評価されるように、ビートルズの曲として大いに聴き所があるとは思いますが・・・。

 逆にポールの”Eight Days A Week”は、アメリカでシングルカットされて2週間トップだったり”I Feel Fine”が書かれるまではイギリスでもシングルの候補だったことでも分かるキャッチーな名曲ですし、フェイドイン・フェイドアウトでの始め方・終わり方も特徴的ですね。

 そして、ポールの唄う”Kansas City/Hey,Hey,Hey”も、ジョンの唄う”Rock And Roll Music”や”Mr.Moonlight”も、二人の歌手としての絶対的な表現力の凄さが如実に表れた名演だということに反対する方は少ないのではないでしょうか?

 この3曲での二人の歌手としての表現力は、どの曲でも原曲を上回っていると言われることも多いと思いますが、特に、”Mr.Moonlight”でのジョンの<振れ幅の大きい唄い方>はビートルズ的表現力の凄さを物語るいい例だと思います。ぜひ、原曲と聴き比べてみてください。

史上初の音?でレコーデイング。シングル”I Feel Fine” 《1964年10月18日》

 ところで、このアルバムと同時期に録音された”I Feel Fine/She’s A Woman”のカップリングシングルは、11月27日に発売されるといきなりNo1でチャートに登場して6週間1位を独走し、2週間で100万枚を売って、イギリスで一番速く売れたシングルレコードとなりました。


 2曲とも、レコーデイングの最中にスタジオで書かれた曲で、それまでのビートルズのヒット同様にリズムのあるノリのいい曲です。

 特に”I Feel Fine”では、ジョンの弾く<リフ>と言われるギターの伴奏のメロディーも、後の”Day Tripper”等に繋がるビートルズらしい特徴的な演奏ですが、この曲のイントロの演奏が始まる直前に入っている不思議な音が非常に話題になりました。

 これは、フィードバックと呼ばれる音の発生の仕方によって、電気的に半ば偶然に出る音です。電気的に音を増幅するエレキギターでは通常の奏法での弦をはじくことをしないでも、楽器に付帯しているマイク=ピックアップ(ギターの弦の振動を電気的に音として変換する装置)が、弦の振動を音として出力することで連続音が出てきます。

 音程や音色が曲のそれとうまく調和しない場合もあるのですが、この曲の場合は丁度いい音が出ています。(後述のように、ジョンは丁度いい音になるように、いろいろ試していたようです。)

 この音が出た(できた)時のことをジョージはこう説明します。

 「ジョンはアコースティックのギブソン(J-160E)、いやエレアコを持っていて、それがアンプに繋がっているときに、ポールのベースアンプの前に立っていた。ポールがA(ベースの3弦の開放弦)の音を弾いたら、それが自動的にジョンのギターのフィードバックを引き起こした。かっこよく聴こえたからそのまま残してみたんだ。」

 このフィードバックの音を試行錯誤しているジョンの姿を、前述のエメリックが見ていました。

 「バンドがスタジオで次の曲のリハーサルに入ると、・・・出し抜けにブーンという音がスピーカーからけたたましく鳴り響いた。コントロールルームの窓に鼻面を押しつけると、何とも驚いたことに、ギターを手にしたジョンが、アンプの前にひざまずいていた。ギターをアンプに近づけすぎると、ハウリングが起きることはよく知られていたが、ジョンはそれを史上初めて意図的にやろうとしていたのだ。」

 ジェフはこのイントロについて「何よりもエキサイティングで、何よりも新鮮だったのは”I Feel Fine”のあのイントロ~ぼくにとってはそれこそが、この曲の一番の売りだった。」とも言います。

 ジョン自身も「フィードバックが入った初めてのレコードだった。ジミ ヘンドリックスの前、ザ フーの前、誰よりも前にフィードバックを使った史上初のレコードだ。」等と言って、結構自慢に思っていたようです。

忙しい1年は再びクリスマスショーで幕を下ろす 《1964年12月24日~65年1月16日》

 11月末に発売された”I Feel Fine”が世界中で大ヒットし、12月に発売されたばかりの4枚目のアルバム”Beatles for Sale”が早くもアルバムチャートのトップに登っていた頃。


 ビートルズの面々は、昨年に引き続きブライアンが企画した豪華絢爛なクリスマスショーで忙しかった1年の活動に幕を下ろそうとしていました。

 ロンドン市内で20夜38回のステージで行われたショーでは、ビートルズは北極探検隊に分した劇を含む二つの寸劇を演じ、当時のシングルやアルバム”A Hard Day’s Night”や”Beatles For Sale”から11曲を演奏しました。13万枚以上売り出されたチケットも完売でした。

 因みに、この時に共演したグループの中に”Yardbirds”があり、後に、”While My Guitar Gently Weeps”で共演するギタリストのエリック クラプトンもメンバーでした。

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