ラバウル、最後の生き証人
今月16日で103歳になる大正10年生まれ。青春期は、赤道直下のパプアニューギニア・ニューブリテン島に築かれた軍事拠点「ラバウル」で約4年を過ごし、うち約1年は捕虜生活を送った。
現在は地域の中の交流サロンに通い、請われると当時の話をしたり、軍歌や戦前の歌を披露している。正式に調べてはいないが、自称、「ラバウルの最後の生き証人」だ。

幼少期を過ごした茨城県の水戸で体力の基礎が築かれた。清流・那珂川の水泳教室に兄と共に毎日通い、柔道・剣道にも勤しんだ。少年期には野球に熱中。この時期に培われた体力のおかげで、徴兵直後の「刑務所よりひどい」初年兵教育にも耐えられた。
昭和17年、ラバウルに送り込まれ、軍司令部で主に情報収集に関わる任務に就いた。
ラバウルは、自給自足もできる堅固な要塞化で知られ、連合国側が占領作戦を見送った所。そこでの戦争体験では、少なくとも飢えなどには苦しまずに済んだ。情報収集に携わっていたため、近くの島での玉砕や、日本国内での空爆の激しさなどは知っていた。戦後も現地で情報をつかめたため、捕虜生活でも、悲観的にならずに過ごせた。
帰国後は、当時の国鉄に職を得て、関東一円を転々とした。
56歳で定年退職すると、すぐに民間企業に再就職。およそ10社近くの多種の企業で働いた。
そんなサラリーマン生活の中で磨いたのが、歌と踊りだ。下戸ながらも酒席を盛り上げようと練習し、その結果、各地の民謡や、戦前・戦中に歌われた「替え歌」などのレパートリーができた。
それらを今、交流サロンで披露している。
「私の若い頃に比べると食生活などは良くなったけれど、極端に個人本位の時代になってしまった。その点、歌はみんなで盛り上がれていいね」
80歳で仕事を辞めたが、その理由は結果的に10年に及んだ妻の介護のため。手が離れた今は、再び働きたい気持ちでいっぱいだ。
「体力も時間も持て余しちゃってね。100歳過ぎてから少し足が弱くなったけど、仕事があるならやりたいね!」
今も、毎日鉄棒にぶら下がり、軽負荷の腕立て伏せで体を鍛えている。
◇しとり・みつる 1921年、埼玉県生まれ、西東京市在住。中央大学在学中に徴兵。帰国後、複数の企業に勤務。毎朝、近所の公園まで散歩しオリジナルの体操をする規則正しい生活を送る。