新紙幣の5千円札に肖像が起用されることに決まった津田梅子は、小平市にある津田塾大学の創設者。わずか6歳で欧米視察の「岩倉使節団」に同行し、日本で初の女子留学生5人のうちの1人となった彼女と、小平とのつながりとは!? 同大学で尋ねると――。
津田梅子資料室・動画(40秒)
梅子の没後に小平キャンパス竣工
津田塾大学は、小平市津田町にあります。いにしえの武蔵野を彷彿させるような木立が、美しい西洋風の学舎を覆っています。
「ここ、東京府下の北多摩郡小平村に新しい校舎が建ったのは、実は津田の没後2年の1931年です。
もともとは麹町区一番町に創設されて、その後、五番町に移転しましたが、学生や入学希望者の増加を受け、さらに広い場所にキャンパスを造ろうと理事会で協議していたのです。
その頃、すでに梅子は病気だったために、運営からは離れていましたが……」
と同大学は説明します。
そのときの候補には、小平、石神井、保谷、清瀬が挙がっていたそうです。
「小平に埋葬してほしい」の遺言
「地盤まで調べて安全性を確かめていたようです。当時は徒歩40分の国分寺駅が最寄り駅でした。
梅子は畑に囲まれ、広やかな眺めだったここを2度ほど訪れていて、『校舎は見られないかもしれないから、先に門を造ってくれないか』と口にしたと伝わっています」(同)
悪い予感は的中し、津田は29年、鎌倉の別荘で帰らぬ人となりました。亡きがらはいったん津田家の墓がある青山墓地に納められました。
「遺書に『小平に埋葬してほしい』と書かれていたそうで、校舎の完成と同時に墓も造られました。
一番町のときも、五番町のときも梅子が寝泊まりしていたのは校舎の2階。死んだのちも生徒たちをそばで見守っていたいという気持ちだったのではないでしょうか」(同)
地域に溶け込み、地名が「津田町」に
畑の真ん中にぽつんと建てられた洋風の同大学は、当初は住民の目には異様に映ったようです。
ですが、周辺農家の多数の父親たちに召集令状が届き出した37年ごろ、母親たちをサポートしようと、大学に託児所を設置。大学と地域の交流が深まるようになっていきました。
62年には、小平町から小平市へと市制移行。その際には、梅子の姓と大学名から取った「津田町」の地名が付けられました。いかに地域に浸透していたかがうかがい知れます。
資料室など一部、一般公開も
現在も同大学は子どもや一般に向けた「英語講座」などを開講しています。
同時に、梅子のことが展示されている「津田梅子資料室展示室」(図書館の2階)も一般公開されています。この機会にぜひ、行ってみては?
資料室は入館申請のうえで
同資料室は平日午前10時から午後4時まで。大学入り口で入館申請が必要。詳しくは同室(042・342・5219)へ。
◆津田梅子 明治4年、6歳のときに岩倉使節団とともに渡米。17歳で帰国、再度のアメリカ留学を経て、明治33年、35歳のときに現在の津田塾大学の前身となる女子英学塾創立。自ら塾長となり、女子高等教育に力を注ぎました。昭和4年、脳出血により64歳で死去。死後、小平に墓所が建立されました。
[外部リンク]