明治150年の文化財ウィークに考えてみました
明治元年から150年にあたる今年、各所で関連イベントが開かれています。
HNK大河ドラマでは、維新の立役者の一人、西郷隆盛が主役。そんななかでふと考えました。この地域の明治維新はどんなだったのでしょうか――?
というわけで、各市の市史をひもといてみました。
白昼堂々、集団で強盗をする輩も
江戸幕府が幕を閉じたのは1867(慶応3)年。市史をひもとくと、その数年前から、地域が無法状態と化していたことが分かります。
長州征討軍の進発のために村々は上納金や人手を取られ、戦の影響で物資は不足。米を筆頭に物価が上がり、人心は荒れ、白昼堂々、集団で強盗に押し込む連中もいました。
この事態に、田無村では、自衛のために洋式小銃100丁を拝借したいと代官所に願い出てもいます。
農兵が誕生 武州世直し一揆を制圧
こうした社会状況の中で、地域に農兵が誕生します。
士農工商の身分制度により武器を手にすることなどあり得なかった農民たちですが、ゲベール銃が貸与され、教官から軍事訓練も受けました。
そんな彼らが活躍した事件の一つに、「武州世直し一揆」があります。
現在の飯能市とその周辺村落から始まった66(慶応2)年の一揆は、またたく間に広がり、2日後には東久留米市の柳窪にも到達。そこへ、田無農兵隊が駆けつけ、「討取8人、生捕13人、手負83人余」と打ち破りました。
もっとも、自衛といえばそうですが、農民が農民を討つという、何とも痛ましい事件でもありました。
田無に拠点を置いた振武軍
そのような不穏な世相のなかで新政府が発足。明治元年となる68年に戊辰戦争が勃発し、4月に江戸城が無血開城されます。
が、旧幕府側の抗戦派は収まりません。
その一つの部隊に、上野の山を占拠した彰義隊があります。
そこから分裂して生まれた振武軍は、およそ300人の規模で田無に拠点を置きました。
なぜ田無だったのか――。
そのことについて田無市史は、交通の要衝であったこととともに、名主の存在を指摘します。
「田無の下田半兵衛は旧幕組合や改革組合の惣代をつとめ、いわば北多摩の支配行政の中心点のひとつであった」
というわけで、総持寺の前身である西光寺などに居座った振武軍は、ごく短い期間で、半兵衛の力も利用し、周辺の村から3600~3800両もの軍資金を徴収することに成功しています。
その後、彼らは転々とし、最後は飯能で敗れるのですが、新政府の追討軍も、田無を拠点にして軍備を整えています。
新政府への期待と失望 「御門訴事件」勃発
このような争乱続きのなかで、人々は新政府に大きな期待を抱きましたた。
当時は不作でもあり、生活の苦しさもありました。特に69(明治2)年の飢饉は激しいものだったといいます。
ところが、庶民の期待に反して新政府が始めたのは、社倉米の取り立てでした。粗っぽくいえば、要は増税です。しかも、地域の従来の慣習を無視する取り立て方でした。
これに怒った農民たちは、大挙して日本橋浜町の県庁まで訴えに出向きます。
強訴にならぬよう、彼らは門前での訴えに徹したが、不当に弾圧され、約50人が捕縛、少なくとも4人が牢死させられました(人数は文献で異なる)。
「御門訴事件」といわれるこの騒動は、発足間もない新政府のもとに農民たちが押し掛けたということで、世間に大きな衝撃を与えました。後の自由民権運動につながったという評価もされています。
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最後に、この地域らしい話題を。
開国で来日した外国人がその技術に驚愕したとも伝えられる「玉川上水」。江戸市民の生活を支えた上水ですが、70(明治3)年に運送用の船が通っています。
江戸時代は市民の上水ということで許可されませんでしたが、通船で地域活性化を狙った地元の思いが通じた形となりました。
もっとも、案の定というべきか、通船は水質悪化を理由にわずか2年で中止させられています。
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西東京市郷土資料室で30日まで特別展開催中。東村山ふるさと歴史館でも企画展開催中。
(※編集部注 イベントは終了していますが、地域情報として掲載を継続しています)
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