猫 耳 南 風
太宰治文学賞作家 志賀泉さんコラム
NHK BS1に「駅ピアノ」という番組がある。世界の主要都市の駅のコンコースにピアノを置き、通りすがりの人が気ままに演奏する様子を固定カメラで定点観測している。ポピュラーな曲もあれば自作の曲もある。プロもいれば初心者もいる。演奏が終わると短いインタビューがある。これからどこへ、何をしに行くか。どうしてこの曲を弾いたのか。それぞれの答えに、その人の人生が垣間見える。答えの内容に人種や民族の違いはあまりない。(彼らはみな中産階級だ)彼らの表情を見ていると、世界はささやかな幸福に満ちているように思えてくる。番組と番組の隙間にはさまれる十五分枠の不定期番組だ。チャンネルを選んでいて偶然に出会えば見るくらいで、僕は熱心な視聴者とは言えないが、好きな番組のひとつではある。
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思い出す光景がある。十数年前、食うに困って警備員をしていた僕は、青山にあるスポーツクラブの改築工事現場に派遣されていた。ビルの中にプールもスカッシュのコートもある高級クラブだが、どのフロアも内装を剥がされ、コンクリートの地肌を剥き出していた。夏の盛りで、冷房のない過酷な暑さの中、解体作業員が汗と埃にまみれて働いていた。
高級バーだった部屋の隅には、脚の折れたグランドピアノが撤去されずに残されていた。ある日の夕方、作業を終えて、若い作業員がピアノに向かい演奏を始めた。僕もその場にいた。クラッシックの曲だ。見事な演奏だった。マッチョな作業員たちも彼を囲んで聞き惚れていた。それだけの思い出だ。
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どういう経緯があって彼は解体業者で働いていたのだろう。ピアニストは(卵もふくめて)ふつう、指を怪我しそうな仕事はしないものだ。挫折した音大生かピアニストか。想像すると、まるでベタなTVドラマだ。
真相はわからないが、工事現場で脚の折れたピアノを弾いていた彼の背中が、いまでも妙に忘れられない。
プロフィール
志賀 泉