1994年に直木賞、2005年に新田次郎文学賞、昨年には歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞している作家・中村彰彦さん。特に史実に基づく歴史小説の名手として知られます。
栃木県の出身ですが、転勤族の父に伴って20代前半から西東京市(合併前から)に暮らします。7日午後2時からは西東京市コール田無で講演を予定しています。
(※編集部注 イベントは終了していますが、地域情報として掲載を継続しています)
「口直し」で小説を書いた
作家になると決めたのは中学2年生のときです。
作文を書くたび表彰され、教諭から「将来、作家にでもなるのか」と言われて、「自分に合っている仕事だな」と本気になりました。
高校生のうちに日本の古典を読みあさり、大学は文学部へ。卒業後は、「文學界」などの文芸誌に関わりたくて、出版社の文藝春秋に就職しました。
……が、「書けるヤツが入ってきた」と歓迎された結果は、配属先が週刊誌に。間もなく連載まで任され、しばしライター業に追われることになりました。
そんななかで意識したのは、原稿を早く書くということ。誰よりも早く原稿を仕上げ、家に帰って今度は自分の創作のための原稿を書きました。
書くという行為は同じでも、ときに週刊誌は「わざと安っぽく書く」もの。格調高い文章を書き綴るのは、いわば「口直し」の気分だったといいます。
歴史小説のレベルの低さに危機感
このころまでは純文学志向。転機になったのは、同社発行の文芸誌「オール讀物」の編集部への異動でした。
2000作以上も寄せられる新人賞の応募作を下読みしているうちに、とりわけ歴史小説のレベルが低いことに危機感を持ちました。
「このままではこのジャンルが衰亡してしまう。良い書き手が出てこないなら、自分がやろう」
会津との出会いも大きかったといいます。
歴史資料を読むなかで見えてくる、会津の過酷な歴史と、もっと評価されるべきたくさんの人物たち……。
幕末期の官軍側から見た歴史――いわゆる順逆史観によって表舞台から消されたようになっている会津ゆかりの偉人に光を当て、直木賞受賞作『二つの山河』では大正期の板東俘虜(ふりょ)収容所で所長を務めた松江豊寿を、新田次郎文学賞受賞作『落花は枝に還らずとも』では幕末の会津藩士・秋月悌次郎のまっすぐな生き方を描きました。
中でもこだわりを持って何冊も書いているのが、会津藩初代藩主で4代将軍・家綱を補佐した保科正之。多摩北部の関連でいえば、玉川上水の開通を主導した人物でもあります。
「儒学の精神で民のための政治をする、その基礎をつくったのが保科正之です。
たとえば明暦の大火で江戸の大半が焼けたときには、今の何百億円に相当する額を幕府から出させています。
また、会津では、今の年金や救急医療に通じる福祉制度を始めています」
「創作」とは距離 史実を追い続ける
こうした歴史に埋もれた人物を掘り出していくのが作家としてのやりがい。資料を重視し、展開頼みの創作ものとは距離を置きます。
専業作家となって20年以上。驚く速度で出版不況が進むが、第一線に身を置き続け、今なお創作意欲は尽きません。
「官軍側による歴史観が根付いてしまったなか、今こそきちんとした歴史小説を書くことが必要です。
先行作品のない、誰も踏み込んだことのないところで、新しい人物像やストーリーを書きたい。
そうでないと、せっかく生まれて物書きになったかいがありません」
◆なかむら・あきひこ 著書は100冊以上。近著に5年半をかけて書き上げた『戦国はるかなれど―堀尾吉晴の生涯』。西東京市在住。
◎中村彰彦