西東京ビートルズ倶楽部(NBC)代表 田中敏久
好評頂いている【ビートルズって、何?】では、自分たちの音楽活動や社会の動きをどう思っていたのか、ビートルズや彼らを取り巻く人々とのdynamics(関係性/集団力学)に注目しながらたどっています。
前回【25】では、ブライアンを失った喪失感の中、<Magical Mystery Tour>プロジェクトに取り組んでいた頃のビートルズについて見てみました。
今回は、その翌年1968年に通称<ホワイト アルバム>と呼ばれるビートルズ史上初の2枚組アルバム”The Beatles”がレコーディングされた頃、グループとしては非常に危うい状態だったビートルズの姿について見ていきたいと思います。
たくさんの皆さんの感想やご意見、どうぞよろしくお願いします。
新年はジョージ単独のインドでのレコーディングで始動 <1968.1.5,9~12、2.6・8>
失意の中で暮れた1967年の後、1968年の初めにまず動き出したのはジョージでした。
新年早々の1月5日のアビーロードスタジオでのセッションから始まり、1月12日のインドのボンベイのEMIスタジオでのセッションまで行われたのが、5月にカンヌ映画祭で上映される同名映画のサウンドトラックとしてジョージがプロデュースした ”Wonderwall(不思議の壁)” のための一連のレコーディングでした。
このアルバムはジョージの名義でアップルレーベルから発売される最初のアルバムとなります。現地ではラヴィ シャンカールの弟子の10人以上の優秀なインド人ミュージシャンが演奏し、その出来には大満足でしたが、ジョージ自身は一切演奏していません。
この時に早く終了したアルバム用のレコーディングの後、折角集めた優秀なミュージシャンやスタジオの時間を無駄にしないために?録音した多数のラーガ(インド音楽の曲の形式)の曲の一つに歌詞を付けて唄ったのが "The Inner Light" だったのです。
2月のアビーロードでの歌のダビングの時には、「美しい詩とメロディーのイメージを壊したくない」と言って唄いたがらないジョージのために、マルがスタジオでろうそくを灯してお香を焚いたとのこと。ジョンとポールが最後の1文の所だけにハーモニーをつけて唄っていますね。
この歌詞も、ケンブリッジ大学のサンスクリット語の先生が訳してジョージに送ってくれた中国の老子の書物『道徳経』の一節を、ほぼそのまま唄っているということですから、ジョージの東洋的感性や思想への傾倒振りを表していると言えるかもしれませんね。
この曲のメロディーの美しさについてはポールも次の様に言っています。
「風変わりな曲だが、ジョージが今までに書いた曲の中で最も親しみやすい曲のひとつだ。インド音楽云々は横に置いて、メロディーを聴いてごらん。美しいメロディーだと思わないかい?本当に素晴らしいよ。」
3月に発売されるこのシングルのA面はポールの ”Lady Madonna” ですから、AB面で随分と雰囲気の違うシングルだった訳ですね。
ちなみにこのシングルは、イギリスではチャートの1位になりましたが、アメリカでは1966年の "Nowhere Man/What Goes On" 以来初めて、3大チャートの2つ以上で1位になれなかったレコードとなるという、少々残念な記録を残しています。
(次のシングル ”Hey Jude/Revolution” は再びメガヒットとなりますが・・・)
延び延びになっていたインド・リシケシュでの瞑想体験。得たものは? <1968.2.15.~4.12.>
前年の夏にイギリス・ウエールズでのセミナーに参加して以来中断していて(特にジョージとパティ夫妻の念願だった)インド人の超越瞑想法のグル(導師・指導者)マハリシ マヘシ ヨギの指導を受けるべく、インド ガンジス川のほとりのヒンドゥー教の聖地リシケシュにあるアシュラム(修行場)で行われる超越瞑想法のセミナーに向かいました。
ジョン夫妻とジョージ夫妻は4月中旬までほぼ2ヶ月、ポールとジェーンは3月末まで、食べ物が合わないリンゴと虫が苦手なモーリンは2週間弱の間滞在して、瞑想したりマハリシのセミナーで学習したりしながら集団で生活しました。
ポールは「サマーキャンプのような生活だった」と言いますが、そのポールやリンゴ、同行したドノバン※の次の様な言葉からは、そこでの生活や音楽活動の一端を垣間見ることができます。
※ドノバン フィリップス リーチは、ビートルズとリシケシュに同行した友人達の一人。60年代後半~70年代に英米でヒット曲を出して国際的な人気があり、当時の日本でもよく知られていたイギリス人のフォーク・ポップシンガー、作曲家。
リンゴ「最高だった。楽しいことがたくさんあって、瞑想もたくさんやった。すごく刺激的だった。ぼくらはとても霊的な場所で瞑想をしたり、マハリシのセミナーを受けたりした。」
ポール「参加者は、恐らく100人ぐらいだった。ステージがたくさんの花で飾られ、そこにマハリシが登場する。彼はこんなことを言った。”これは、単なる瞑想の方法でしかありません。・・・これは、あなた自身の人生がより穏やかになるのを手助けする方法に過ぎないのです。”」
ドノバン「ポップミュージックから遠く離れた所にいるビートルズを観察し、ぼくらが皆巻き込まれていることにしっかり向き合えるチャンスだった。騒々しいことから全て解放され、自分達を閉じ込めてしまうことができるというのはかなり希な体験だった。外ではマスコミが待ち構えていたけれど、建物の内側は素晴らしかった。」
「ぼくが感銘を受けた音楽家たちから学んだり、一緒に演奏したりする機会に恵まれた。ぼくらは皆ゆったりと寛ぐことができた。ぼくらは音楽を演奏した。持ち込まれたインドの楽器でジョージは実験にトライしていた。」
「・・・重要だったことは、ぼくがとても苦労して身に付けた(3フィンガーと言われる指を3本使ったフォークギターの)ピッキングスタイルをジョンに教えたことだ。当時そのスタイルで演奏できたのは、イギリスのフォークシンガーの中では3人しかいなかった。」
「このスタイルで彼は("The Beatles"の) 'Dear Prudennce' と 'Julia' を書いた。あのスタイルはぼくがジョンに教えたものだ。ぼくがビートルズから曲の構成等について多くを学んだようにね。」
そして、次の様なジョンの言葉からは、当時の迷い悩んでいたジョン、ひいてはビートルズの姿が浮かび上がってくるようにも思えます。
ジョン「その時期ぼくは、”一体何になる?曲作りなんて意味ない!無駄だ。ぼくには才能がない。ぼくはろくでなしだ。でも、ぼくはビートルズでいることにしか能がない、どうするつもりだ?”という状態だった。」
「ぼくは本当に巨大なエゴを抱えていて、3・4年の間、自分に何も残らなくなるまで、それを破壊しようと時間を費やしていた。インドへ行ってマハリシに会うと彼は”エゴは自分で面倒が見られる限りはいいものだ”と言った。でもぼくは、本当にそれをぶち壊してしまい、その結果パニックに陥って弱っていた。何もできなかった・・・。」
このように、ビートルズでいることに悩み、迷っていたジョンだったようですが、次の言葉にあるように、そのジョンを救ったのも、やっぱり音楽だったようです。
勿論、リシケシュでの静かな生活の中で、自分にとっての音楽や曲作りの意味・価値を見つめ直すことができたことということが大きな意味があったのでしょうね。
ジョン「ぼくらはほんとに煩わしさから解放された。言ってみれば、あれはヒマラヤ山脈の真下にある浮世離れした休暇村だった。」
「ぼくは5日間部屋にこもって瞑想した。曲が100曲書けた。眠れなくて、猛烈に幻覚を見て匂いのある夢を見たんだ。数時間経ったところでトリップから覚醒した。1回の持続時間は3・4時間だった。こんな方法で目指していた境地に到達したんだ。驚くような旅を経験できたよ。」
「何をすべきだったかはさておき、ぼくはそこにいたとき、自分の最高傑作の曲をいくつか書いた。良い環境だった。心地良いし、安心だし、みんないつも笑っていた。できあがった曲のためだけだったとしても価値ある体験だった。」
「"ホワイト アルバム" の曲は全部インドで書いたんだ。ぼくらはマントラを習い、山の中に座り、粗末な菜食主義の食事をして、これら全ての曲を書いたんだ。」
「全員合わせて約30曲を書き上げた。ポールは10数曲やったはずだ。ジョージは6曲作ったと行っていた。ぼくは15曲書いた。それに、リンゴが瞑想から得たものはすごかった。ー何しろ、彼はこの時初めて自分で曲を作ったんだ。」
「一生に一度、あの時だけ、ぼくたちは何者にも何事にも煩わされることを拒否できた。」
吹きすさぶ嵐の中でのレコーディング "The Beatles" <1968.5.25~10.14>
さて、ジョンの言葉にもあるように、リシケシュでしこたま曲を仕込んできたビートルズの面々は、次のアルバムのレコーディングを始める前に、4人揃って準備作業に取りかかります。
ジョージの自宅で5月25日から5日間かけて行われたこの事前録音は、自宅のあった地名にちぃなんで『Esher Demos(イーシャーデモ)』と呼ばれ、市販されている”The Beatles(White Album)” でも聴くことができるエディションがあります。
このデモは、曲によっては最終版とほとんど変わらない状態のものもあれば、全く印象が変わっている曲等もありますが、総じてリラックスした雰囲気の中で行われたことが窺われます。
さすがのビートルズも30曲にも及ぶ作品を一気に一つのアルバムに納めるのは悩ましかったのでしょうね。
また、ビートルズの面々の創作活動や作品の変遷を考える上でも、全く歌詞が変わって生まれ変わったジョンの ’Child Of Nature’(⇒'Jealous Guy')や後に各々のソロアルバムに納められるポールの'Junk' やジョージの'Circles' の他にも、曲調が全く変わり歌詞も一部変わって曲全体の意味合いが大きく?変わった’While My Guitar Gently Weeps’等、非常に興味深いものがたくさんあります。機会があれば、是非聴いてみてください。
さて、この時点での最長製作時間を要することになる2枚組アルバム ”The Beatles” は、後述のマーチンの発言にもあるように、高く評価するフアンも多く、気に入っていると言うメンバーが多いアルバムではあります。
※後にイギリスでは11月22日に、アメリカでは25日に発売されるこのアルバムは、2枚組だったにもかかわらず、イギリスでは30万枚、アメリカでは190万枚の予約がありました。また、イギリスではアルバムチャートの1位で初登場して9週間の間止まり、アメリカでも発売2週目から9週間、1位に止まっていました。)
しかし、アルバムのレコーディングの最中にジョージやリンゴが「もう、ビートルズを抜ける!」と言ってスタジオから飛び出したり、最後のミキシングを前に休暇をとってしまったり、スタッフ側でも、マーチンやエメリックまでもがビートルズとの共同作業から離れていってしまいます。
まさに、大嵐が吹きすさぶ中で行われたレコーディングだったわけですが、それはそのまま、当時のグループとしてのビートルズの結束が非常に厳しい事態に陥っていたことを如実に表していると言えるでしょう。まずは、このアルバムをビートルズの面々や関係者がどう思っていたのかをご紹介します。
リンゴ「"Sgt.Pepper's" はやるべきことを果たした。これは、60年代、もしかしたら20世紀を代表するアルバムだ。曲は素晴らしく、とても革新的だ。ほんとに楽しかったし、参加できたことを嬉しく思う。だけど、"ホワイト アルバム" ができてみると、ぼくはこっちの方が好きになった。」
マーチン「彼らは、曲を大量に持ってきた。私は少々圧倒された。しかし、同時にがっかりもしたよ。中には傑作とは言えない曲もあったからだ。・・・それでも、私の知る多くの人がをビートルズのベストアルバムにあげている。」
ジョージ「レコーディングを始めた時は、"Sgt.Pepper's" ほどに成功するか考えなかったと思う。・・・僕らはいつも違う物を作ろうとしていた。いつもどこかが変わっていた。僕らは月毎にあらゆる方向に変化してしていたから、前作と似たような新作を出す可能性は全くなかったんだ。」
ジョン「("Sgt.Pepper's"で)エレクトロニクスや凝ったアレンジに興味をもったあと、ぼくは最終的にそういう要素を全て振り払った。2枚組アルバムに入っているぼくの曲は、極めてシンプルでプリミティブなんだ。"Sgt.Pepper's" とは180°違っていた。ぼくはいつだってこっちの音楽の方が好きだった。」
ジョン「"ホワイト アルバム" は、ただ "これはぼくの曲だ。ぼくらはこんな風にやろう。あれは君の曲だ。君らはそんな風にやるんだね。" というやっただけのことなんだ。」
ジョージ「このアルバムのレコーディングで3つのスタジオを同時に稼働させたのを覚えているよ。一つのスタジオでポールがオーバーダビングをやり、ジョンがもう一つのスタジオにいて、ぼくが3つ目のスタジオでホーンセクションか何かを録音していた。それはもしかして、EMIが発売日を設定していて、あまり時間的余裕がなかったからかもしれない。」
ポール「人はぼくらの言動やぼくらの曲を全て政治的な声明だと思っているようだけど、そうじゃない。結局、いつだってただの歌でしかないんだ。聴いた人がビートルズは何をやっているんだろうと思うような曲も一つや二つはある。だけど、ぼくらがやっているのはただ歌を唄うことだけなんだ。」
ジョージ「新しいアルバムには、インドや"Sgt.Pepper's・・・" 以降の全ての経験が形となって現れた。リシケシュで書いた曲の殆どは、マハリシの教えを受けた成果なんだ。」
「・・・それから、各々の個性的な特徴もかなり出て、初めて人々がぼくらそれぞれの違いを認識するようになった。バンドの中では、それぞれが強い自意識を持つようになっていた。」
このように、それぞれのメンバーが、バンド全体の統一感よりも自分の個性を強く意識するようになっていた所に、もう一つの大きな問題が姿を現します。
それは、もう少し後にジョンの新しいパートナーとして知られるようになる日本人女性の前衛芸術家ヨーコ オノの存在です。
既にお話したように、1966年の9月にインディカギャラリーでジョンと運命的な出会いをしたヨーコは、その後少しづつジョンに近づいてきていて、リシケシュ滞在中のジョンにも毎日のように手紙を送ってきていたのです。ジョンも同行していたシンシアに気付かれないように、毎朝早起きして郵便物をチェックしたりしていたのでした。
そしてあろうことか、”The Beatles”レコーディングの初日にヨーコをスタジオに連れてきてメンバーに紹介し、ヨーコがジョンと一緒にいつもスタジオにいることが分かると、それまでたとえ結婚していてもパートナーをスタジオに連れてきたりはしなかった(イギリス北部のどちらかと言うと古風な考え方の)他のメンバーや昔からの仲間を驚かしたりしていたのでした。
この辺りの周囲の驚きや戸惑いの言葉はたくさんありますが、ここではジョンの子ども時代からの友人のピート ショットンや関係者の中でも比較的客観的に見ていたと思われるマーチンの見方を紹介します。
ピート「"White Album"を製作している最中に彼らの間に起こった純粋に音楽的な行き違いを、ヨーコ オノのせいにするのは全く公平ではない。ただ、彼女が姿を続けて見せたことは、そうでなければ眠ったままだったろう、または、ずっと平和的に解決されていたかもしれない緊張関係の象徴として働いたことは間違いない。」
「私が頻繁にアビーロードスタジオに行っていた時期、昔ながらの愉快なそぶりや笑い・仲間同士の連帯といったものは目立って失われていったように思う。ビートルズのレコーディングは、とても深刻で気難しい作業へと変貌してしまった。"Sgt.Pepper's・・・" の製作を取り囲んでいたお祭り騒ぎからは、それこそほど遠いものになってしまった。」
マーチン「レコーディングの最中、病気になったヨーコをベッドごとスタジオに連れて入ろうとジョンが言い張ったのが、記憶にある。レコードを作る間、病気で伏せっているメンバーの妻を一人側に置くなどというような出来事は、他のメンバー、いや、他の誰との関係も悪くした。」
「ジョンとヨーコの間には、とても大きな絆があった。それは誰の目にも明かだ。彼らの精神は完全に一体化していた。そして、二人の絆が育つにつれ、ジョンはポールや他のメンバーとの絆を縮小して行ったんじゃないかと思う。勿論、それは、問題の種になった。もはや彼らは、以前のような親密な4人組(私を入れて5人組)ではなくなっていた。」
そして、次のようなメンバー3人の言葉は、このことがいかに<音楽共同体>としてのビートルズにとって耐えがたい問題だったのかを如実に現しているように思われます。
リンゴ「スタジオにしょっちゅうヨーコがいるというのは、目新しい状況だった。今まで経験したことはなかった。・・・ぼくら4人の関係は密接で、ある意味で家族のようなものだったから、ヨーコの登場は緊張を生んだ。ぼくらは他人からの度を超した干渉が嫌いだった。ヨーコは他人だった。(ジョンにとってはそうじゃなくても、ぼくら3人にとっては他人だった)」
「そこ(スタジオ)は、ぼくらだけが一緒にいる場所だった。そうしてぼくらはうまくやってきたんだ。ぼくらはみんな冷静を装って、そのことを口に出さないようにした。でも心の中では全員不満を感じていて、部屋の隅で話をしていたんだ。」
ポール「ジョンはヨーコなしではいられなくなった。彼を責めることはできないよ。ふたりは激しく愛し合っていたんだー初めて経験する熱情に溺れていたんだ。」
「あの時はとてもやりにくかった。ジョンがグループを離れたのは、ヨーコとの関係の障害になるもの全てを精算するためだったんだと思う。それまでのジョンは何も精算できないでいた。ー彼はビートルズという大きな荷物を背負っていた。その重荷とはぼくらと関わり続けることだった。」
「それはぼくら自身の問題だった。何と言ったって、ぼくらはビートルズだった。そして、あの女性(ヨーコ)がそこにいた・・・。まるで、ぼくらが彼女の家来になったみたいで、とても変な感じだった。”White Album”はそんなギクシャクした状況の中で作られたアルバムだった。」
「すごくいいアルバムだったと思う。何かを訴える力があった。だけど、作っていて楽しいアルバムじゃあなかった。でも、一方で、そういう状況が芸術面で有利に働くことがあるんだ。このアルバムが面白いのはバラエティに富んだ多くの曲が入っていることだ。素晴らしいアルバムだと思う。」
ジョージ「ぼくは、ヨーコがジョンとぼくらの中を引き裂くクサビになるんじゃないかと感じていた。そして現実にそうなったんだ。」
「解散の全責任をヨーコに負わせるのはフェアじゃない。いずれにせよぼくらはもううんざりしていたんだ。みんな、自分の道を歩き始めていた。ヨーコはその状況を促進させる触媒のようなものに過ぎなかったんだろう。ぼくは一つも後悔していない。だけど、当時は彼女がいることが煩わしかった。」
こうして4人(5人)は、一緒になったりバラバラになったりしながら、延々と5ヶ月間もレコーディングを続け、ようやく10月中旬には製作を終えることができましたが、リンゴとジョージは最終的な選曲や曲順の決定には立ち会わずに休暇に出かけてしまい、ジョンとポールがマーチンたちと作業を続けました。
最後にミックスしてモノラルとステレオのマスターを作る作業が、さすがのビートルズでも前例のない丸一日(24時間)かけて行われ、ようやく全ての作業が終了しました。
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