2人の子育てをしながら抗がん剤治療で闘病
44歳のときに突然ステージ4の肺腺がんと診断された水戸部ゆうこさん。当時、二人の子どもは小学5年生と2年生で、途方に暮れ、一時は自死も考えた。しかし、50歳になる今、抗がん剤治療を続けながら、現役世代のがん罹患の実情を知って欲しいと、がんサロンの主催や、メディア・セミナー出演など、精力的な活動を続けている。その間にどんな心境の変化があり、どんな日々を送ってきたのか。1時間にわたって、お話を伺った。
咳が止まらないことから発覚した
――今の体調はどうですか
「実は先週、風邪をひいて寝込んだのですが……。がんのほうは、抗がん剤治療を続けていて、もうすぐ7年になります」
――がんと分かったときのことをお話しいただけますか。
「肺腺がんのステージ4で分かったのですが、もう、衝撃で……。
私の場合は、咳で分かったんです。
花粉症なので、最初はアレルギーによる咳だと思っていました。
ところが一向に改善しないので、病院を転々として、レントゲンを撮ったら、肺にばあって白い点々が散っていて……。これはまずいということですぐに検査入院となりました。
肺腺がん、それもステージ4なんて想像もしていませんから、青ざめたというか、頭真っ白です。
子どもが小学5年と2年で、親の出番が多い時期ですし、仕事もしていました。
がんの情報なんて何も知らないし、どう調べたら良いかも分からない。
その頃、すごく思ったのは、『もう長く生きられないんだ、人生終わったな』ということでした」
打ち明けると、みんな泣き出してしまう
――周りの人に情報を聞いたりはできなかったのですか?
「『ステージ4の肺がんだ』と切り出すと、相手が泣いてしまうのですね。ポロポロと……。
そうすると、改めて『やっぱり私は駄目なんだ』と思ってしまうことにもなって、かえってつらくなるんです。
病院からも、『延命の治療です』『とにかく後ろに引き延ばす治療です』と言われていて、そう聞くとやっぱり、『ということは、放っておいたらあっという間なんだろうな』と考えてしまうんです。
それと、薬漬けで副作用との闘いがありました。抗がん剤は副作用が強く、皮膚とか髪とかが弱くなる。人と会うこと自体にハードルを感じるようにもなりました。
こうなると、やはり眠れなくなるんですよね。眠れないと心も体も疲れ切っていってしまいます。
そんなこともあって、考え抜いた末、仕事も辞めました。近くで事務の仕事をしていたのですが、職場が完全禁煙ではないというのもあったので……。
ところが、体が楽になった半面、孤独感に襲われるようになりました。社会とのつながりがなくなってしまったように感じたのです。
そうすると本当に精神的に追い詰められていって…。
私、一体生きている意味があるのかな、とか考えるようになりました。
どうせ死ぬのだから自分で終わらせるという手もあるのではないかな……。そんなふうに考えたりもして、すごく悩むわけです。
最初の2年はトンネルをさまよっているような感じでした。
どこに吐き出せばよいのか分からないし、同じ境遇の誰かとも出会えない。どこに、何をよりどころに生きていけばよいか分からない。
今まで一生懸命やってきたことがパアになるというか、何のために生きてきたのか分からず、生きる目標がなくなったように感じました」
オンライン患者会の出会いが転機となった
――それが変わったのは、何がきっかけだったのでしょう?
「あるとき、『キャンサーペアレンツ』というオンライン患者会にネットで出会ったのですね。子育てをしながらがんの闘病をしている方たちの集まりです。
そのオフ会に行ってみたら、皆さん、小さなお子さんを抱えているのに、とても明るかったんです。
特に、代表の西口洋平さんの発言が素晴らしくて――2020年にお子さんを残して亡くなってしまったのですが――『これは、ぼくの最後の仕事なんです』と。
子どもを抱えて闘病しながら、誰にも相談できない人が全国にいるはず。同じ立場で悩みを打ち明け合う人がいなくて苦しんでいる人たちに、交流の場を作りたい――と、オンライン上に患者会を立ち上げたというのです。
その話を直接聞いたとき、『トンネルの中をさまよっている場合ではないな』と目が覚める思いがしました。
『子どもがいるうちは元気に頑張らないと』、と」
父が食道がんで死去
――それで、今の活動に繋がっていくのですね?
「いや……。実はもう一つ、大きな出来事がありました。
というのも、私が罹患した1年後に、今度は父が食道がんになってしまったんです。しかもステージ3。そして、9カ月後に他界したんですね。
その看病はつらかったです。
あっという間に悪くなって亡くなっていったのですが、どうしても、『私もこうなるのかな』と思ってしまうのです。
そんなときに、レジリエンス外来に出会いました。
私は国立がん研究センター中央病院に通っているのですが、そこに精神腫瘍科という、がんになった方の精神科があるのす。
そこのレジリエンス外来では、『人には生まれながらに持っている心の回復力がある』ということを根拠に、生きてきた軌跡を見るというか、自分の過去を振り返る作業をするのですね。
そうすると、『ずいぶん自分を否定して生きてきたな』『否定的に見てきたんだな』ということに気づいたんです。
だから、自分を解放することができず、人の目を気にしてしまって、余計に人に本音を言えない、ということが分ったのです。
つまり、結局自分を苦しめていたのは自分なんだと気づいたんですね」
――それを機に、のびのびと発信できるようになったのですか。
「ちょうど、外に出る機会が得られたというのが大きかったです。
これは今でも『こんな出会いがあるんだ……』と信じられないような思いがするのですが、父が他界したタイミングで、『がんの方で、お仕事を探している方はいませんか?』という案内が、患者会のメルマガから流れてきたんです。
えっ? と思って、半信半疑で応募してみたら、すぐに採用していただいて。それが、今私が勤めている「秋葉原社会保険労務士法人」です。
代表が、闘病者などへの社会的サポートを重視していて、画期的なことに取り組んでいく方なのですね。最初は通勤していたのですが、移動がつらくなってからは、オンラインで仕事をさせてもらっています。
ここに出会えてからは、『ここでお仕事させていただいている間は、自分の状況をカミングアウトして、世の中の子育てしながら闘病している方とか、がんで悩みを抱えながら毎日過ごしている方たちに情報発信していこう』と決意しました。
そこから今日まで、あっという間です」
大竹まことのラジオ、笠井信輔のYouTubeなどに出演
――ご活動は、どんなふうに始まったのですか。
「最初は大竹まことさんのラジオ番組『ゴールデンラジオ』(文化放送)ですね。職場のホームページに書いた闘病ブログを文化放送の担当の方が読まれ、『がんの特集をするので取材させてほしい』とご連絡をいただきました。
その後、日本経済新聞でレジリエンス外来体験者としてインタビューを受けたり、Eテレ・ハートネットTV『コロナ禍のがん医療』への出演、NHK for schoolでのインタビュー出演、笠井信輔さんのYouTube『笠井信輔のこんなの聞いてもいいですか?」への出演、闘病中の方がなさっているユーチューブ番組などに呼んでいただいています。
それから、イベントでのトークショーとか。
そんなときに――、2021年なんですが、オンライン患者会で出会ったがんの友達が、未就学のお子さんを2人残して、30代で亡くなったんです。
そのとき、ずっと経過を見てきた私は、『こんな寂しい亡くなり方って、ないな』と思いました。
お子さんがいちばん手がかかる時なのに、周りのママ友にも助けてと言えない。行政は対応が冷たい。終末期になって動けなくなっても、子どもが目の前にいて、入院もできない。そんな亡くなり方だったんです。
特に若いと、周りに病気の人なんていないじゃないですか。そういうなかで『私、がんなんです』とは言い出しにくいんですよね。それは私も体験者としてよく分かるんです。
そういうことがあって、誰もが『助けて』と言える社会にしたいな、そのために当事者として声を挙げていかなきゃ、という思いから、まずはがんのピアサポーターの認定を取りました。
同時に、がんサロン~CancerおしゃべりCafeを作り、私の地元である小平市と、職場のある千代田区で、交互に月1回ペースでサロンを開催しています」
――闘病しながらのご活動は、ご負担ではないのですか。
「ぜんぜん(笑)。
もちろん、体がだるくてつらいというときはありますが、全体的には楽しみでしかないです。それは、病気になって、自分がいつ死ぬか分からないというところから来るエネルギーだな、と感じます。『3年後にこの世にいないとしたら、今できることをやらないと』という思いが爆発するんですね。
こうした活動は、過去の私のためでもあり、亡くなった彼女のためでもあり、困っている人、今の社会のためだな、と思うんです。
だから、達成感とか充実感とか、今まで感じたことのない愉しさがあり、いろいろな人とつながれることが喜びになっています」
PTA役員選びでのつらい体験
――地域メディアなので、お尋ねしたいのですが、ご病気になって地域で困ったこと、あるいは地域に求めたいと思ったことはありますか。
「少年野球チームの手伝いとか。でも、気さくな温かいチームだったので、とても助けられ、感謝しています。
その半面、つらかったこととしては、学校のPTA役員を決める時のことです。
人と同じように活動ができないので候補から外してほしいと頼んだのですが、漏れなく対象になるというルールがあって、結局、全員で採決することになりました。『皆さん伏せてください。水戸部さんを候補から外してよいと思う方は挙手を――』と……。
これは悲しかったです。
治療、副作用に苦しみながら、元気な親御さんと同じようにできない負い目を感じているなかで、どうしてこんな裁判にかけられるような思いをしなければいけないのだろう――と。
今は2人に1人ががんになる時代ですし、女性ということでは、9人に1人が乳がんになると言われています。しかも罹患のピークは40代から50代。9人に1人といえば、クラスの保護者に3、4人いてもおかしくないということですよね。あなただって、来年は分かりませんよ、という話なのです。
それなのに、こういう事態が生じるというのは、結局、それだけ皆さんに、がんに対する認識がないということなんだと思いました。特に、若い患者に対しての認識が。
このことも、『私がカミングアウトしていかないと』と思ったきっかけでした」
近くで支え合えることが大事
――ちなみに、ご病気になる前は、地域活動などはしていましたか?
「まったくないです。そんなの煩わしいと思うタイプでしたね(笑)」
――今では地域を拠点にさまざまな活動をしているわけですが、それによって何か変わったことはありますか。
「やっぱり、近いって大事だな、と思うようになりました。
今は共働き家庭も増え、皆さん忙しいということもあり、井戸端会議的なことが見られなくなってきていますが、実はああいう場で、ちょっとした悩みが解決するということがあるのですよね。話しているうちに自分で解決の糸口を見つけたり、問題を笑い飛ばしていたり。特に女性はそういうのが得意です。
最近は、そういうことができなくて、SNSへの投稿などで何とかしのいでいる方が多いような気がします。
そんなこともあって、同じ境遇の人が出会う『がんサロン』などが重要だと思い、小平市にも市長に直接要望書を渡すなどして掛け合っているのですが、なかなか進みません。
でも一方で、市議会議員の水口かずえさんの協力を得て、月に1回、第2木曜日の午後に、水口さんの事務所『まちづくり市民こだいら事務所』(小平市学園東町2-4-11)を会場に、駄菓子店を運営できるようにもなりました。月1回ですが、たくさんの子どもが来てくれます。
合わせて、『まちの個別サロン』というのも始めたところです。ニーズを感じますね。
誰が病気かは一見分からないですが、お互いに分かると、特にご近所の方とは支え合うことができるんです。そういう輪が広がっていくといいな、と思います」
誰もががんになり得る時代 情報収集を
――最後に、11月23日のイベントについてお聞かせください。
「がんイコール死、と思う方が多いですが、今は治療法も日進月歩で、半年もするとまるで変わっていることもあります。患者自身も、情報をアップデートしていかないといけません。
そんなことから、年に1回はセミナーをやろうと決めていまして、今回は、がんに関係のない方も広くお招きする形で開催します。
というのも、がんは誰でもなる可能性がありますし、身内の罹患も考えれば、誰もがどんな社会資源を使えるかなどの情報を収集しておくべきと思いますから。
こういう活動を通して、がんへの理解、若いがん患者が実は身近にいるんだという認識が社会に広まることを期待しています。
ぜひ多くの方にいらしていただきたいです」
【イベント情報】
11月23日午前10時から11時45分まで、小平市中央公民館で「~だれにとっても大切なこと~使える社会資源を知ろう! アドバンス・ケア・プランニング(人生会議)を考えてみよう!」が開催。
講師は国立がん研究センター中央病院の認定がん専門相談員・清水理恵子さん。無料。
申込はこちらから。
お問い合わせはメール(cancercafe2022@gmail.com)へ。
◆みとべ・ゆうこ
1974年生まれ。2018年に肺腺がんステージ4と診断された。2020年、がん患者を対象にした求人によって、「秋葉原社会保険労務士法人」に入社、現在も勤務する。一般社団法人全国がん患者団体連合会主催の「がん教育外部講師のためのeラーニング」修了など、ピアサポーターのための養成講座を複数修了。著書に『がんなのに、しあわせ』。がんサロン~CancerおしゃべりCafe代表。
◎がんサロン~CancerおしゃべりCafé (※動画紹介も多数あり)
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11/23、小平でがんセミナー ステージ4の50歳女性企画
弱者に優しい社会へ、情報共有を 44歳で肺腺がんステージ4と診断され、2人の子どもを育てながら闘病を続ける水戸部ゆうこさん(50)の企画で、23日㈯㈷に小平市中央公民館で、がん関連の情報を広く伝えるオ ...