「存続を願う会」が32年で幕
西東京市のほぼ中央の場所に30ヘクタール(東京ドーム約6.5個分)の規模で広がる東京大学大学院農学生命科学研究科附属生態調和農学機構(以下、機構)。旧来の名称から「東大農場」「東大演習林」と地域で親しまれてきたこの機構は、以前、千葉県への移転を発表し、それを中止してこの地に残った歴史がある。
その移転問題に対して「残ってほしい」と地域から声を上げ続けた市民団体「東大農場・演習林の存続を願う会」(以下、「願う会」)が、今年3月、32年に及んだ活動に幕を下ろした。
その活動を追うと、市民運動の意義やあり方が見えてくる。
本題の前に、同機構について整理しておこう。
同機構は東京大学大学院農学生命科学研究科の附属施設で、一口にいえば、農学の実験・研究の場となっている。内部には、畑、水田、樹園、林、温室などがある。
農場が開設されたのは1935年。2010年に、隣接する田無演習林(1929年開設)の教育研究機能も取り入れて、機構となった。
このエリアは都市部では貴重な緑地となっていて、演習林にはオオタカも営巣する。その一部エリアは見学も可能だ。
2度の移転問題
そんな地域の名所に移転問題が生じたのは、実は2度に及ぶ。
1度目は1992年。当時の田無市議会が同所でのスポーツ公園開設を求めたのだが、これはほどなく立ち消えとなった。
もっとも、このときに「願う会」が発足している。代表に就いたのは、この夏に90歳になるという宮崎啓子さん。
「専業主婦で、市民運動なんて全く無縁。運動体ではなく、緑が好きというメンバーが集まっただけだった」
と振り返る。声高な主張などは一切せず、むしろ東大農場・演習林と協調関係を築いて、毎月の自然観察会などを開くようになった。
2度目の移転問題が生じたのは2003年。
このときは東大が決定したもので、常識的に考えれば市民がいくら反対しようと覆るはずなどなかった。が、地域の自然環境団体が結集し、「東大農場のみどりを残す市民の会」が発足。署名4万6133筆を東大に届けるなどした。会長を宮崎さんが務めた。
この運動は4年半に及び、2007年8月、宮﨑さん宅に東大本部から「農場移転中止を連絡します」の電話が入る。移転中止の理由は公開されておらず、市民運動の成果だとは考えにくいが、一市民団体の代表者に直接連絡が行くというのは異例のことだろう。
この決定を受け、「市民の会」は解散。メンバーはそれぞれの活動に戻り、宮㟢さんもまた、「願う会」で東大との協調を維持した。
数々の功績
「願う会」「市民の会」が残した功績は大きい。
アースデイなどのイベントを通して市民にその魅力を伝えたこと、東大マルシェの開催、機構・市と連携してのフォーラムやワークショップ、小冊子・パンフレットの発行。
中でも、現在「農場博物館」(休館中)として使用されている建物は、崩壊寸前だったところを、教授と市民の調査で、安田講堂設計者の内田祥三による文化的価値の高いものと突き止めた。同博物館自体、市民が参加して、開設、運営に至っている。
学術面でも、「願う会」の25年に及ぶ観察会の記録をもとにした学生の論文が、国際的な専門誌に載り、受賞したというトピックがある。
市民の声が届く仕組み
こう見ると、継続した市民活動の持つ可能性を感じずにいられない。
2013年には、フォーラムでの提言をもとに「社会連携協議会」が発足し、東大の組織の中に正式に市民の声が入ることになった。全国的に見ても、ここまで組織立って大学と市民が連携する例は珍しい。
「願う会」の解散は会員の高齢化による部分が大きいが、同協議会の発足によって役割を受け渡せたという面もあるようだ。地道な市民活動による成果といえるだろう。
最後に宮崎さんは32年の活動をこうまとめた。
「普段から協力して働き、まめに出入りしたことで、現場の職員一人ひとりと信頼関係を築けた。それが、何かを求めるときに力になったのだと思います」