西東京ビートルズ倶楽部(NBC)代表 田中敏久
好評頂いている【ビートルズって、何?】では、自分たちの音楽活動や社会の動きをどう思っていたのか、ビートルズや彼らを取り巻く人々とのdynamics(関係性/集団力学)に注目しながらたどっています。
前回【22】では、1966年の終わりの頃、再び集まって新しい音楽創りに取りかかり始めた頃のビートルズやマーチン達の活動について見てきました。
今回は、いよいよあのモンスターアルバムに取り組んでいた頃のビートルズやマーチン達の生みの苦しみについて見たいと思います。 たくさんの皆さんの感想やご意見、どうぞよろしくお願いします。
<始まりは 'Strawberry Fields Forever’から> 1966.11.24.
前回も少し書きましたが、ここでこのアルバムの音作りに関して改めて確認しておきたいのは、<アルバム ”Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band”の革新的音作り>は<シングル 'Strawberry Fields Forever’(/ 'Penny Lane’)>から始まった、ということです。
マーク ルイソンは、このことに関わって次の様に言っています。
「'Penny Lane’はジョンの 'Strawberry Fields Forever’と絶妙な対位法(対になる旋律)をなしていた。・・・共通するテーマを持つこの2曲は、どちらもニューアルバム※に収められることになっていた。」(※ ”Sgt. Pepper's・・・”のこと)
これだけだと、単にレコーディング時期が近かったというだけのことのように思われるかもしれませんが、このことに関わって、マーチンが 'Strawberry Fields・・・’と”Sgt. Pepper's・・・”との関係について次のように語っていることは、ビートルズの創作活動の限りなく近い所にいて、それをこよなく愛し、支えてきた人物の洞察として、非常に興味深い考えだと思います。
マーチン「 'Strawberry Fields Forever’は、メンバーの人生における重大な変化を象徴していたと思う。それは”ペパーズ物語”の始まりだったし、高度に幻想的な、一部の人達がサイケデリックと呼ぶような方法の創作活動の始まりでもあった。」
「私はこれを完全なる音楽詩のイメージとして考えたいと思う。言わば、現代のドゥビッシー、もしくはラベルに近い感じだと思う。」
「そこでのビートルズの考えは、とても華麗だけれども同時にとても分別のある方法で、飛躍的に発展したと思う。私は 'Strawberry Fields Forever’を真に偉大な歌として評価している。彼らが今までに手がけた作品の中で、多分最も素晴らしい曲の一つではないかと思う。」
このような言葉からは、マーチンが 'Strawberry Fields・・・’と”Sgt. Pepper's・・・”とを一体のものとして考えていたことが分かります。
次のような言葉も、<ビートルズの音作り>に関わってきた筈のマーチンが、実は<ビートルズの音楽に締める詞=言葉の重要性>を評価していたことを表していると思います。
「 'A Day In The Life’のような詞は、ローレンツ ハート(アメリカの著名な作詞家)とは異質のものだが、非常に個性的な性格から生まれた非常に優れた詞である。これこそ、この世代の人の歌だ。若者たちを奮い立たせた、時代の歌と言えるだろう。」
その'Strawberry Fields Forever’が、今日聴くような形に最終的に落ち着いたのは、この年の末、12月も押し詰まった30日のことでした。
※前回「12月22日」と書きましたがこれはジョンの声を録音した日でした。この後、12月30日までかかって前回書いたような壮絶な<2バージョン合体>が行われたのでした。
※2017年5月に発売された ”Sgt. Pepper's・・・”の<50周年記念アニバーサリーエディション>にも、アルバム収録曲と一緒にこの2曲のオリジナルテイクが複数収録されています。
この2曲と本アルバムの強い関係が公式に認められていることの表れと言えるでしょう。
<5ヶ月間続いたレコーディング。本格的な始まりは 'A Day In The Life’から> (1966.11.24.~)1967.1.19~4.21.
最初の曲に1ヶ月かけたのであれば、13曲+αのアルバム全体では5ヶ月に3日足りないだけの日数がかかったのも無理のないことかもしれません。(エンジニアのエメリックの後日の計算では凡そ700時間だとか。)
新年早々の4日から始まった 'Penny Lane’のレコーディングが、開始からほぼ3週間で全て終わった2日後の1月19日。
後に、このアルバムの最後を締めるのはこの曲しかない、と誰もが認めたジョンの曲 'A Day In The Life’のレコーディングが始まりました。
ルイソンはこの曲の最初の録音(第1テイク)について「('Strawberry Fields・・・’の場合同様に)そのシンプルな美しさは完成版に何ら劣るところがない」と言っていますが、曲そのものの素晴らしさと同時に、この段階から普通ではないレコーディングの仕方がされています。
この段階=いわゆるベーシックトラックの段階では、ピアノやギター、マラカス等と一緒にジョンの作曲した部分しか録音されていません。
ミドルエイトと彼らが言う、ポールが作曲することになっていた曲の中間部分は、この時点ではまだ全く存在していません。
そこには、空白部分の小節の数を1から24までカウントするマルの声が、次第に深くなるエコーをかけて録音されていました。(大音量で再生する等すれば聞こえると思います)
そして、その空白部分の最後には、今でもはっきり聞こえるあの目覚まし時計のベルの音。
全くの偶然とは言え、恐らくは現場で「その音は残しておこう」と判断したビートルズのセンスは、やはりただ者ではなかったということでしょうね。
この目覚まし時計はジョンの家から持ってきたという話もあるようですが、「もしかして・・・?」という気がしないでもありませんね。
ところで、この曲のエコーの使い方ことで、ジョンらしい話をエメリックから。
「 'A Day In The Life'ではやたらとエコーをかけたね。」
「ジョンのマイクからテープレコーダーに信号を送ってその音を録音してから、更にまた録音用に入力して、(音が何重にも繰り返して録音されるそうにして)その音(信号)が勝手にフィードバックするように録音レベルを上げて、ジョンのボーカルの音が(残響が何重にもかかって)小刻みに震えるようにした。」
「ジョンは唄いながらヘッドフォンでそのエコーを聴いていたんだ。彼は自分が歌う曲では、リズミックな感じにするために、よくエコーを使ってヘッドフォンでそのエコーを聴きながら、唄い方のフレージングを考えていたんだよ。」
この後、ポールの唄う部分を一端録音した後で、ドラムとベースのパートを録り直します。
この時、後述のように「他に比べるものがない程、音楽的なドラミング」とか「唄うドラム(ソロ)」等と絶賛されるリンゴの名<フィルイン>がレコーディングされたのですが、この時もマーチンは「あれは彼が自分で考え出したことだ。」と言い、リンゴの力量を認めています。
そして、最初の録音から3週間経った2月10日、空前絶後のレコーディングが行われます。
この日、スタジオに集められた40名ものロンドンでも最上級のクラッシックの演奏家達に彼らの仕事を説明するのは例によってマーチンの役目でした。
「ごく小さな音から始めて、最後はものすごい大音量にもっていきます。各楽器の一番低い音をだんだん上げていって、最高音で終わります。それぞれに勝手に演奏していいですが、音の上げ方はできるだけなめらかにしてください。隣の人と同じ音は出さないようにしてほしい・・・。」
そして、このとんでもないオーケストラの音を確実にテープに記録するのは、例によってエメリックの仕事でした。
「オーケストラのあのクレッシェンド(次第に大きくなる音)をきちんと録るには、フェーダーを慎重に操作するしかなかった。・・・ある程度まで上げたら、聴いている人が気付かないくらいに少しだけ音量を下げ、最後に4デシベル(音量の単位)程余裕をもって終わるようにしたんだ。ただレベルを上げるだけでは、ああ上手くはいかなかっただろう。」
そしてまた、このレコーディングは、ビートルズの指示によってあり得ないほどクレージーなハチャメチャなイベントとなっていました。
「ロンドンの名だたるオーケストラからスタジオが満員になるくらい大勢の演奏家達を集めて、全員におかしな帽子や赤い鼻を着けさせ、弦楽器の弓に風船をくくりつけ、ストラディバリウスのバイオリンにマイク代わりのヘッドフォンを取り付けてそれを我慢させるなんて、ビートルズでなければできなかったことだ」と大喜びして語るのは、アビーロードスタジオの専属エンジニア。(もしかすると、彼らは普段はそんな演奏家達に傅いていたのかも知れませんね・・・?)
この日のレコーディングを終えて、あの真面目なマーチンですら、こんな感想を語っています。
「オーケストラのパートを録り終えた時、ちょっと勝手をしすぎたかな、という気持ちが私の中にあった。でもその一方で、『こいつはスゴイ!』と思っていたよ。」
この日から更に2週間程経った2月22日。本当の最後となるピアノ3台の重低音和音にマーチンのハーモニウムを重ねて3回繰り返してダビングして、完璧なエンディングとなりました。
こうしてようやく完成した 'A Day In The Life’。ビートルズを代表する<傑作中の傑作>と言う人もいますが、このアルバムのハイライトと言っていいと思います。
ジョンの深くエコーがかかった声は、遙かかなたのどこか遠い世界から響いて来る声を思わせ、現実の世界の出来事を唄っているようでいて、その世界からを外から眺めている<自分>はどこか別の所にいて、ロンドンの交通事故の現場を見ていると思ったら、別の場所の道路の穴を心配したり、軍隊の勝利の話題も他人事のようです。(「それは映画の中だけのお話」とでも・・・?)
うって変わって、クリアーな声でポールが表現している<生身の自分>は、目覚ましが鳴ってベッドから転がり落ち、朝食もそこそこにバスに乗るために部屋を飛び出して行きますが、そのバスの中ではまたしても睡魔が襲ってきて・・・。
そう、ビートルズがここで表している<人生の一日>とは、情報過多の現代に生きているリスナー自身の一日のことで、彼らはそこで、
「あなたの一日も、こんな感じではないですか?」とか、
「本当のあなた自身は、一体どこにいるのでしょうね?」
ということを問いかけているのではないでしょうか?
今回の冒頭で紹介したマーチンの次の言葉は、まさしくこのような<ビートルズの詞≒言葉の現代性>のことを表していると言えるでしょう。
「 'A Day In The Life’のような詞は(中略)非常に優れた詞である。これこそ、この世代の人の歌だ。若者たちを奮い立たせた、時代の歌と言えるだろう。」
<’Sgt. Pepper’の名前は、機内食の塩・コショウから>
さてここで、このアルバムが<ロック史上最初のコンセプトアルバム>と言われる理由となったポールの曲 'Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band/ (Reprise)’について、特にその曲(=アルバム)のタイトルの由来について少し触れたいと思います。
そもそも、ポールは前年後半の長い休暇の最後にマル エバンス※と一緒にケニアの国立公園でツリートップス・ホテル等で過ごした後、飛行機でロンドンに帰ります。
※マル エバンスは、キャバーン時代からプロデビュー後も長くビートルズのローディーとして世界中を飛び回り、ツアー終了後はビートルズのセルフアシスタントとして、ニール アスピノールと供に常に4人と一緒に行動してきました。
ポールによれば、この時の機内で次の様なできごとがあったとのこと。
「マル・エヴァンスと海外から飛行機で帰っている最中のことだよ。機内には僕と彼しかいなくて、ふたりで食事をしていたんだ。」
「彼は口をモグモグしながら『塩(salt)と胡椒(pepper)(=salt and pepper)を取って』と言ったんだけど、僕には『ソルタンドペパー』・・・『サージェント・ペパー』?って聞こえてね」
「初めはふたりで笑っていたんだけど、すぐに『ちょっと待って。すごく良いアイデアじゃないか!』って思ったんだ。」
「サージェント・ペパーをキャラクターにすることを思いついてね。このアルバム制作のために自分たちの自己を作り変えるというのはすごく良いアイデアだと思ったんだ。解放された気分だったよ」
ポールにはマルとのやりとりの中で曲の名前やキーワードを思いつくことがよくあり、この話も大筋では事実に即していると思われます。
この名前そのものについては、ジョンはこう言っています。
「・・・ポールのアメリカ体験から生まれたものだ。ウエストコーストのやたらに長い名前のグループが次々に出てきて、もうビートルズとかクリケッツなんてのは廃れて・・・。ポールはそれに影響されたんだろう。」
「彼はビートルズと世間との間にある程度距離を置こうとした。それで、Sgt. Pepperなる人物が出てきた訳だ。」
ポールが提案したコンセプトアルバムという考え方について、ジョンやジョージもあまり賛同はしてはいないようですが、これもリンゴが正直な気持ちを語ってくれています。
「このアルバムでは最初にペッパー軍曹が出ることになっていた。最初の2曲を聴けば、これがショー形式のアルバムだって分かるだろう。Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandとその他いろいろの芸人が出てきてロックオペラ風に展開する筈だった。」
「最初の感じじゃもっと違う物になると思ったんだけど、結局ペッパー軍曹とビリー シアーズまで来たところで、”どうでもいいや!”って思っちゃったんだ。”この2曲だけでいいよ”って。だけど、タイトルだけはそのままにして、全部つながっているように思わせたんだ。だけど実際には、全ての曲に繋がりがあるわけじゃないんだよ。」
<”Sgt. Pepper's・・・"のLPは、レコードの概念も変えた>
ビニール盤に収められた音楽的な内容の革新性もさることながら、このLPアルバムはレコードというもののもつ意味・概念そのものも変えることになります。
まず、手に取って(取る前に見て?)驚かされるのは、カラフルなジャケットの表面に写っている70人の姿でしょうか。
アルバムタイトルが描かれたバスドラムを囲んで真ん中に並んでいるのがビートルズだということはすぐ分かるし、その横に凜々しく立っている人気女優(イギリスのモンロー)やその頭上で鋭いまなざしを向けている盟友ディランの顔はビートルズのフアンでなくとも見慣れた姿かも知れません。
しかし、その他多くの仮想観客としてリストアップされた人物写真や胸像やら人形やら、果てはソニーの小型TV、福助まで・・・。
この時、アルバムのジャケットは、単なる<レコードの入れ物>から<最新のセンスで包まれたポップアート作品>に姿を変えていたのです。
ジャケットの制作費だけで、それまでのアルバム全体のレコーディングにかかった費用を超えてしまったということから分かるのは、それをかけるだけの成功(売り上げ)が期待されていたことでしょうか、それともビートルズの我が儘の表れでしょうか?
少なくとも、ポピュラー音楽のLPでジャケットに歌詞を印刷することがこのアルバムから始まったことは、歴史的に大きな意味があることは間違いないでしょうね。
また、この頃ビートルズがEMIと交わした新たな契約に則って、この”Sgt. Pepper's・・・”のアルバムから、ビートルズのアルバムは全世界で同一基準で=同じ内容で発売されることになったことも、重要な点ですね。
これまで、イギリス版とアメリカ(キャピトル)版では、まったく違う内容のアルバムが出ていたことでビートルズの面々が嫌な想いをしてきたことは何度もお話してきましたが、ようやくそれが解消されることになった訳です。
このことによって、ロックミュージシャンもクリエーター・アーティストとして認識されるようになる道が開かれた、と言っていいと思います。
その道を切り開いてきたのは、やはりビートルズだったのですね。
<僕がチェスを覚えたのはあのレコーディングの時だ>リンゴやジョージの思いは・・・?
この 'A Day In The Life’ではもう一つ、前述のようにリンゴのドラマーとしての力量が曲の良さを支える非常に重要な要素になっていることを忘れてはならないと思います。
この曲では、メロディーを支えるリンゴのドラム、特にジョンのパートでの歌の合いの手に入る<フィル イン>の素晴らしさは、著名なプロのドラマー達にも絶賛されているのです。
この<フィル イン>では、ジョンの歌の合間合間に入るタイミングや使う楽器(ドラムの種類)の選び方、そして勿論、細かなリズムの作り方等々、本当にリンゴスターというドラマーのセンスの良さを物語る素晴らしいフレーズばかりなのです。
これは実は<ペパーズ物語の始まり>の曲でもある 'Strawberry Fields Forever’でも同様なのですが、使われる楽器がコロコロ変わって曲の表情が七色に変化していっても、同じ曲としての<統一性=トーナリティー>が失われないのは、実はこの<リンゴのドラムが変わらない=安定してる>ことが非常に大きいと思います。
このようなリンゴのドラマーの力量≒存在感の大きさについて、マーチンも次のように絶賛していて、絶大な信頼を寄せていたことを物語っています。
「リンゴは楽曲に対して素晴らしいセンスをもっている。最初からその曲にぴったりのテンポを設定してくれるんだ。彼が岩のようにがっちりしていたお陰で、ビートルズの曲は全て、レコーディングがかなり楽になったよ。」
※最近、初期の映画が放映されたりしたこともあってか、ピート ベスト(リンゴの前任者)とリンゴのドラマーとしての力量を比べるような無謀な話も一部であるようですが、全くの論外ですね。
'Love Me Do’のバージョンを聴き比べればはっきり分かる筈ですが、ピートの致命的な欠点は、テンポが不安定で曲に合わせてリズム(パターン)を作るセンスも全く貧弱なことです。
今回の 'Strawberry・・・’や'A Day・・・’、更には少し前の 'Rain’等々、リンゴの安定感やリズムを創り出すセンスのよさは後生への影響も大きく、多くの著名ドラマーも語っているように圧倒的です。(例えば、Zeppelinのジョン ボーナムやToToのスティーブ ポーカロ等々)
特に、少し後になりますが 'Get Back’のリズムは非常に革新的なリズムで、後で前出のボーナムやポーカロによって<ハーフタイム シャッフル>として確立され、現代のロックやポップミュージックを支える重要なリズムとなりましたが、当初は全くのリンゴのオリジナルのリズムだった筈です。(その他にも「おいそれと真似できないリンゴのドラミング」は数限りなく・・・)
ところで実はこの時期には、そのリンゴやジョージから次の様な発言がなされていました。
このような発言は、この頃のビートルズのバンドとしてのあり方の変化やメンバー間のすれ違い≒意識のズレを表していると思うのは考え過ぎでしょうか?
リンゴは言います。
「ジョンとポールとジョージ(作曲家たち)は、何でも望むものを曲に加えていった。僕らは長時間スタジオにこもった。ベーシックトラックをレコーディングするのはいつもと同じだったけど、ストリングスやら何やらのオーバーダビングに何週間もかかるようになって、パーカッションのオーバーダビングは更にまたその後だ。」
「”Sgt. Pepper's・・・”は素晴らしいと思うよ、いいアルバムだ。でも待ち時間が長くてね。僕がチェスを覚えたのはあのレコーディングの時だ。」
そして、ジョージも・・・。
「僕にはだんだん辛くなってきた。それまでの僕らは、もっとバンドらしいレコーディングをしてた。・・・”Sgt. Pepper's・・・”で、いろんなことがちょっとずつ違ってきた。」
「ポールがピアノを弾いて、リンゴがテンポをとってるだけで終わるってことが多くて、僕らはバンドとしての演奏があまりできなかった。流れ作業みたいになってしまって(ちょっとしたパートを入れて、それからオーバーダビングして)僕にはそれが、ちょっとくたびれるし、ちょっと退屈にもなってきた。楽しいことも少しはあったよ、でも全体としては、あのアルバム作りはあまり好きになれなかった。」
「・・・1966年にああいうことがあってからは、何もかもが辛い仕事に思えてね。あんまりやりたくないことをやるのも仕事なんだ。僕はあの時点で”Fab Four”(ビートルズ)の一員であることに興味を失い始めていた。」
「他のみんなは”Sgt. Pepper's・・・”を革新的なアルバムだと思っていた。でも、僕にとっては”Rubber Soul”や”Revolber”程楽しいものではなかった。」
スタジオでの楽しいはずのレコーディングが、「バンドとしての演奏ができず」に「流れ作業みたいになってしまって」それが半年近くも続いていては、苦しいハンブルグ時代からキャバーン時代まで、4人一緒に力を合わせて乗り越えてきたと思っていたメンバーからすれば、非常につらいものがあったのではないかと思われます。
ロック・ポップミュージックの歴史に燦然と輝くモンスターアルバム ”Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band”は、全世界に大きな衝撃をもたらしましたが、同時に、産み落とすまで5ヶ月もかかった難産は、それを産んだ母親の母体にも抜き差しならない大きなダメージを与えることになったと言えるのではないでしょうか?
そしてそのダメージは、世界中に愛される<Fab Four>の育ての親とも言える男性を襲った悲劇によって、抜き差しならない大きな傷となってビートルズの心を蝕んでいくのです。
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皆さんもビートルズの曲を唄ったり演奏したりしながら<ビートルズサウンドの秘密>を一緒に考えませんか?
西東京ビートルズ倶楽部(NBC)では、今までもビートルズ好きの皆さんがリアルで集まって ビートルズのCDを聴いて語り合ったりビートルズの曲をライブで聴いたりするイベント等を行ってきました。今「ビートルズのこの曲なら弾ける」とか「演奏してみたい・唄いたい」という皆さんと一緒に<ビートルズサウンドの秘密>を考える<ビートルズ倶楽部バンド>のメンバーを新たに募集します。 熱い思いで一緒にプレイして、語り合いましょう!
特に今回、ジョンやジョージ(ポールも!)のギターのパートが弾ける方を、お待ちしています。
また、今回もご紹介しましたが、このサイトの内容やビートルズについてのご意見・感想等、をお待ちしています。特に、<ビートルズの楽曲の中でどの曲が好きか、好きな理由やその曲にまつわる皆さん自身のエピソード等々>は大歓迎です。
皆さんの熱い・厚い想いを、メールでご連絡下さい。お待ちしています!
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