西東京ビートルズ倶楽部(NBC)代表 田中敏久
好評頂いている【ビートルズって、何?】では、自分たちの音楽活動や社会の動きをどう思っていたのか、ビートルズや彼らを取り巻く人々とのdynamics(関係性/集団力学)に注目しながらたどっています。
前回【21】では、1966年の頃、ビートルズの周りで起き始めていた、様々なゴタゴタやその背景について考えてみました。
今回は、その1966年の終わりの頃、再び集まって新しい音楽創りに取りかかり始めた頃のビートルズやマーチン達の活動について見ていきたいと思います。
たくさんの皆さんの感想やご意見、どうぞよろしくお願いします。
長い休暇で思い思いの活動。最初のベストアルバムをリミックス 1966.9月~11月
最後のアメリカツアー後、ビートルズとしての活動がない期間に、4人はそれぞれの思いのままに、ほとんどバラバラに過ごしていました。
ジョンは、9月6日~11月6日まで、前2作のビートルズ映画の監督だったリチャード レスターに兵士の役で指名された”How I Won The War”の映画の撮影で、北ドイツとスペイン南部に滞在していました。
スペインでは、撮影がない間待っていることにすっかり飽きてしまったジョンは、この後レコーディングする'Strawberry Fields Forever’を作曲したりしていました。
この頃のジョンの様子について、一緒に参加していた俳優のマイケル クロフォードは言います。
「彼は'Strawberry Fields Forever’を書いていた。自分の寝室に座って、ギターでメロディーを探っていた。しっくりとくる並びになるまで、彼が同じ小節を何度も何度も演奏するのを私は聞いた。どのようにして歌ができあがっていくのかを聴くのは、面白かった。」
何かをしたいと思っていたポールは、NEMSの依頼で映画”The Family Way”の音楽を作曲し楽しい経験をしました。アレンジやレコーディング等は、マーチンが担当しました。
ポール「僕は昔から、曲を書く才能に恵まれている人に憧れていてね、かっての偉大なソングライターコンビとか。ミュージカルの作曲ができること、映画音楽を作れるってことはすごいと思ってた。だから映画音楽は、僕にとって面白い気晴らしになったんだ。」
ジョージは、1ヶ月間インドに滞在し、インドの音楽や文化、シタールの演奏方法や心構え、更には、インド哲学や宗教も学び、人生や将来のことを真剣に考える時間をもてていました。
ジョージ「1966年9月にインドに行った。僕はシタールを習い始めた。ラビ(シャンカール)がレッスンしてくれたんだ。床に座っていると僕は腰が痛くて死にそうになってね。それを見たラビがヨガの先生を呼んできて、ヨガ式の体操も教えてもらった。すばらしい休暇だった。」
そしてリンゴは、サリー州の田舎の自宅で、前年に結婚したばかりのモーリンや子どもザックと一緒の時間をたっぷり過ごし、ジョンの撮影現場のスペインに遊びに行ったりもしました。
リンゴ「1966年のオフはほんとに楽しかった。『さあ、もうツアーは終わった。妻と子どもと一緒に楽しく過ごそう』って考えられるようになった。僕にも他のことをやる時間ができたんだ。」
この頃、ビートルズの面々がクリスマスに向けたアルバムやシングルを出す気がないことをブライアンから知らされたEMIレコードは、この機会にそれまでイギリスでは出していなかった<ベストアルバム>を出すことにします。(このLPはその後日本では発売されましたが、アメリカでは出ませんでした。)
”A Collection of Beatles Oldies”(~"But Goldies!”と裏に続きます。)というタイトルが付けられたこのアルバムの収録曲は、ほとんどが既に発売されていた曲ばかりですが、65年の"Help"の頃に録音されアメリカでのみ発売されていた'Bad Boy’が入って、更にモノラルとステレオの二つのフォーマットで発売されることになりました。
そうなるとアビーロードスタジオのマーチンやエメリックには、結構やっかいな仕事ができてしまいました。
つまり、1969年頃まではビートルズであってもステレオミックスは作られていなかったので、このベストアルバムのために新たにミックスし直す必要が出てきてしまったのです。
(勿論、ビートルズはこの作業には一切タッチしていません。)
このステレオミックスの再編集には、予想外の多くの時間がかかりました。
例えば、初日に3時間で3曲する予定が、結局2時間で1曲('Peperback Writer’)しかリミックスできず、2曲は次の日送りになりました。
また、'She Loves You’は、(今では考えられないことですが)オリジナルレコーディングのテープがとっくの昔になくなっていて!、残っていたのがモノラルミックスのマスターテープだけだったので、エメリックが1時間半かけて<疑似ステレオ>バージョンを創り上げるしかなかった(左チャンネルは高音域をカットしてベース音を効かせ、右チャンネルは高音域を効かせる)等々・・・。
中には 'From Me To You’のように、全くリミックスはされずに、オリジナルの2チャンネルのモノラルミックスのボーカルを右チャンネルに、その他の楽器を左チャンネルに振り分けただけ、とか、もっと酷いことは、ステレオバージョンのLPには、イントロのハーモニカの部分が全く入っていない≒見(聴き)落とされた、という有様の曲もありました。
それでも、日本でもこのLPでしか聴けない 'Bad Boy’を求めて、このLPを買った方も多かったのではないでしょうか?
この曲が入れられたことで、デビュー以来のビートルズのレコーディングした作品(公式版)は、全てリリースされたことになりました。
ある意味で、このことによってここまでのビートルズの音楽活動に一つの区切りがつけられることにもなったと言えるかもしれません。
新しいレコーディングの始まりはジョンの曲から 1966.11.24~12.22
8月末の最後のアメリカツアーからはほぼ3ヶ月、"Revolber”の完成からはちょうど5ヶ月経った11月末。ビートルズの面々とマーチン達は、久し振りにアビーロードの第2スタジオに顔を揃えました。
酷かったその年のゴタゴタについてくだくだとおしゃべりをした後、マーチンの「よし、仕事を始めよう。どんな曲を持ってきてくれたんだ?」という声に素早く応えて叫んだのは、「手始めにやるのに、いい曲があるぜ!」というジョンの声でした。
(そう言えば、"Revolber"での実験的な試みもジョンの’Tomorrow Never Knows’から始まりましたね。)
こうして始まった、11月24日のアビーロードスタジオでのレコーディング初日の様子について、"Revolber”からチーフエンジニアに昇格してマーチンやビートルズとレコーディングできることを心待ちにしていたエメリックが、詳細に語ってくれます。少し長いかもしれませんが、とても興味深い部分がたくさんあるので、ご紹介します。
「スタジオではいつものように、マーチンが4人の真ん中で高いスツールに腰掛けていた。
(彼は見上げられるのが好きで、打合せの時は決して普通の椅子には座らなかった。)
ジョンは彼の目の前に立って、アコースティックギターを弾きながら小声で唄っている。」
「最初の音を聴いた瞬間、ジョンの新曲は傑作だと分かった。彼が生み出したのは<ストロベリー フィールズ>と呼ばれる謎めいた場所への、優しさあふれる、ほとんど神秘的とさえ言えそうな賛歌だった。・・・まるで抽象詩のように言葉の一つ一つが力を持っていたし、ジョンの声も幽玄で、どこか魔法めいた感触があった。」
(「最初の音を聴いた瞬間」とは少し話ができすぎな気もしますが、マーチンもこの時、最初に聴いた時の感想を「それはとてつもなくステキ(absolutely lovely)だった。最高によかったんだ。もともと私はジョンの声が好きだったけど、あれを聴けたというのは最高の特権だったね。」等と後に語っています。)
「彼が唄い終わっても、みんな圧倒されておし黙っていた。と、ポールがその沈黙を破って、敬意を込めた静かな声で一言、<そいつは本当に素晴らしい(absolutely brilliant)>と言った。・・・この曲は明らかに別物だった。」
「「デモテープも持ってきたんだ」とジョンはテープをかけようとしたが、その必要はないというのが、全員の一致した意見だった。『すぐさまレコーディングに取りかかりたい。』スタジオにはエネルギーがみなぎっていた。ずっと瓶の中に閉じ込められていたグループの創造的エネルギーが、一気に吹き出したような感じだった。」
このようにして、この曲 'Strawberry Fields Forever’は、最終的には、ビートルズとそのチームが過去4年間のスタジオでの経験で学んだあらゆるレコーディングテクニックがつぎ込まれる作品となり、ビートルズのレコーディングの中でも、最も複雑なプロセスを経て完成される曲となっていくのです。
ポールはこのくだりを「幾つかのバージョンを作った。ジョンは最初の何回かのテイク(録音)が、今ひとつ不満で、僕らはすべてやり直したんだ。最終的には、ジョンとマーチンとで二つの違うバージョンをくっつけた。」と言っています。
また、この経過についてエメリックは次の様に言っています。
「 'Strawberry Fields Forever’のリメイクに費やした時間は、全体で恐らく30時間以上になるだろう。この曲でのジョンは、いつものせっかちさを見せなかった。この頃のジョンは、それまでに比べて明らかにずっと落ち着いていたんだ。その結果、この曲はジョンがビートルズ時代にレコーディングした他のどんな曲よりも長い時間をかけて、じっくり料理されることになる」と。
具体的には、最初にまず、ビートルズ自身がメロトロンのイントロから始まるバージョンを録音します。そして、12月に入って、この曲の<オーケストラ リメイク>が始まり、「具体的にはよく分からないが、とにかくもっとヘヴにしたい」というジョンの言葉から始まり、ポールの口添えもあって外部ミュージシャンによるチェロとトランペットの音が大幅にアレンジされて付け加えられます。
その他の楽器も新しく録音し直したりして、12月末の段階で初期の比較的軽い音のものとオーケストラも入った重厚な音のものというキー(音程)もテンポ(速さ)も違う2種類のバージョンが存在することになりました。
そしてエメリックは、この曲の最後のリメイクについて、次の様な驚くべきプロセスを経てできあがっていったことを語っています。
それは12月も末の22日。ジョンが「最初の部分は前のバージョンの方がいいから、2つのバージョンを繋げてほしいんだ」と言い出したときには、エメリックは口をあんぐり開けて、隣のマーチンのゆっくりとまばたきしながら血圧がどんどん上がっていく様子を見ていました。
マーチンは言います。「彼は、ほとんど解決の見込みのない問題を、私(達)に手渡したのだ。しかし、とにかくやってみなければならない。」と。
そこで、マーチンとエメリックの二人は試行錯誤を繰り返している内に、最初のバージョンのテープスピードを上げて音程を上げ、2番目のバージョンのスピードを下げて音程を下げると、あるところで両方の音程とスピードがピッタリと一致することを発見したのです。
つまり、最初のバージョンの方が音程も低く速さも遅かったので、こちらのスピードを速くすることで音程が上がり、後のバージョンのスピードを遅くすることで音程が下がって二つのバージョンの違いが解消される筈だ、ということです。
勿論、当時はコンピューター等を使って機械的に正確にスピードをコントロールできる技術はまだありません。何度も何度も試行錯誤を繰り返しながら、実際にピッタリ一致する所を発見したのでしょう。
丁度、前年の’Rain’のレコーディングで、複数のテープループの音量を手動で上げ下げしながら調整したように、またしても、人力で手探りしながら問題を解決していったのですね。
この辺りの具体的な作業の様子について、エメリックは
「幸い、EMIのテープレコーダーには、とても細かな調節ができる変速コントローラーが備わっていたので、少しの練習で、僕は最初のバージョンのスピードを少しづつ上げ、テープをつなぎ合わせる点でピッタリの音程にできるようになった。」と言います。
そしてその晩遅く、丁度編集を終えた所に、ジョンが仕事の様子を窺いにやって来ました。
エメリックが編集したテープをジョンに聴かせると、ジョンは頭を垂れじっと集中して聴き入っていましたが、繋いだか所を過ぎた数秒後に頭を上げ、満面の笑みを浮かべながら言いました。
「もうすんだのか?」「勿論!」「そうか。よくやったぞ、ジェフリー!」(エメリックのこと)
エメリックによれば、ジョンは彼らの仕事ぶりに非常に感心して、その晩何度も'Strawberry Fields Forever’をかけ直して聴かせると、曲が終わる度に目を丸くして「すごいよ、とにかく凄い!」と何度も繰り返していたようです。
新しいビートルズと新しい楽器/メロトロンとスルマンダル
ここで、この 'Strawberry Fields Forever’で新しくレコーディングに使われ始めた2つの楽器のことを詳しく見てみたいと思います。
まずは、ジョンが1965年8月に購入してずっと自宅に置いて使う機会を窺っていた<メロトロン マークⅡ(Mellotron MarkⅡ)>です。
これは、1964年に登場した、当時最先端のテクノロジーの成果を示す電子楽器で、言わば70台のテープレコーダーを1つの箱に収納したような仕組みになっていて、弦楽器や管楽器等そのものの音やメロディー等を録音したテープが鍵盤を押すことで10秒間だけ再生されるという、今日使われるシンセサイザーの前身ともサンプラーの原型とも言えるような楽器でした。
もうしばらくするとムーディーブルースやキングクリムゾン等、多くのイギリスのプログレバンドと言われるようなグループが使い始めますが、ジョンは、この楽器をイギリスで初めて使ったミュージシャンの一人だったわけです。(当時、非常に高価だったようですが・・・。)
さて、エメリックはこの楽器とビートルズの面々との出会いの様子を、次の様に語っています。
「・・・磨き上げたキャビネットに収まったやたらと場所をとる鍵盤楽器、メロトロンというジョンの新しいおもちゃだ。どうやら自宅からわざわざ運びこんできたらしい。
ビートルズの他のメンバーやマーチンがこの楽器を見るのはその時が初めてだった。全員が好奇心にかられ、代わる代わるキーボードの前に座っては、新しい音を試し始めた。」
「単なる珍しさを超えた、楽器としての可能性に最初に気付いたのはいつものようにポールだった。フルートの音に設定して、ジョンの新曲のコードをいろいろなやり方で弾き始め、驚くほど短時間のうちにジョンの忘れがたいボーカルラインをきれいに彩るアレンジを考え出した。そのサウンドが曲のムードにあんなにもピッタリ合っていたのは、まさに天の采配だった」と。
次に、リメイクの過程でジョージが持ち込んだのが、何カ所かで非常に効果的にアコースティックな響きを聴かせて≒効かせているインドの楽器<スルマンダル(Surmandal)>です。
これは、現在もヨーロッパで使われている<チター>という箱形の楽器に似ていて、金属的な響きでハープの高音域の音を出せる楽器です。
インドやパキスタンの楽器について書かれた文献によれば、『箱枠に多数の金属弦を張ったハープ状の楽器。今日の演奏では、声楽の伴奏として歌手が開放弦でかき鳴らすに過ぎないが、(古代インドの)ムガル時代の細密画には、球状の弦押さえを弦上でスライドさせて旋律を演奏する様子が描かれている』ということです。
この 'Strawberry Fields Forever’では、曲調の変わり目や曲の終わりに近い部分で、はっきりしたきらめくような音を響かせ、曲中の他の部分の、どちらかと言えば混沌とした分厚いサウンドに比べて象徴的に曲の節目や方向性を示しているようにも思えます。
実はこの二つの楽器は、この時期のビートルズの音作りにとって非常に重要なことを象徴的に表していると思います。
一つには、エレクトリックとアコースティックの絶妙なバランス・調和感というこです。
メロトロンのような電子楽器・エレキギター・ベースのような最先端の音とスルマンダルやシタールのような民族楽器そして西洋音楽で伝統的に使われてきた弦楽器や管楽器、これらのサウンド・響きが<ビートルズの歌>と供に<新しい(当時の)現代的な響き・サウンド>として渾然一体となって聴き手に問いかけてきます。
「あなたが聴きたいのは、どんな音楽ですか?聴きたい音が、この中にきっとありますよ!」と。
もう一つは、どちらかと言えばビートルズ自身にとっての問いかけだったようにも思われます。
つまり、<ライブでレコードの音を再現する>という呪縛から解き放たれた<レコーディングアーティスト>としての道を突き進み始めたビートルズは、決して一色だけのサウンドカラーでは表現しきれない<多極的多面性>とでも言うべき姿をはっきり示すようになっていた、とでも言えばいいでしょうか。
ジョージの<インド指向>がその最たるものだと言えると思いますが、ビートルズがこの頃にはとっくに<パワフルハーモニーのロックンロールバンド>ではなくなっていたことには賛同して頂けるのではないでしょうか?
その<多極性>は、実は4人のビートルのそれぞれの個性が発現し始めた姿だと言えると思いますが、この頃にはまだ、その多極性・多面性は<ビートルズ>という枠の中にかろうじて繋ぎ止められてはいたと思います。
その、壊れそうでいて何とかかろうじて繋ぎ止められている<荒ぶる4つの魂の絶妙なバランス≒危うく震える美しさ>こそが、この後のあのアルバムに結晶していくのだと思われます。
66年の年末は 'When I'm 64'と’Penny Lane’で一息 1966.12.6~12・30
ジョンの 'Strawberry・・・’の最初のバージョンが一段落したと思われた頃には、次なるポールの曲に取りかかり始めていました。(勿論、 'Strawberry・・・’への取り組みは、まだまだ続くのですが・・・。)
まず、'When I'm Sixty-four’は、ポールが初期の頃に創って、ビートルズとしてもハンブルグ時代から演奏してきた曲でした。(この曲をやることになった理由の一つが、ポールのお父さんが、実際にこの1966年の7月に64才になったことがあるようです。)
実は、キャバーンクラブ時代にはアンプが壊れることがよくあったようですが、その時にいつもこの曲を演奏したとか。恐らくはポールのピアノ伴奏を中心に唄ったんでしょうね。
この曲は12月29日に一端ベストミックスが作られましたが、結局満足できなかったポールが、全て破棄して新しくテープスピードを上げて「声を半音上げて、若い感じにして」レコーディングすることを提案します。
このことの背景を、エメリックは「ポールは、まるで16才の少年が64才になった自分の姿を夢見ているような感じにしたかったのかもしれない」と言います。
この辺のイメージや 'Penny Lane’の曲想は、ジョンが 'Strawberry・・・’で示した世界観に繋がっているのではないでしょうか?
そして、恐らくこの世界観が、最初の頃の<次のアルバムのコンセプト>として考えられていたのではないかとも思われます。(勿論、それはこの2曲がシングルとして先に発売されることで、覆ってしまいますが・・・。)
この曲の再録音やもう一つのポールの曲 'Penny Lane’が本格的にレコーディングされるのは、年が明けた1967年になってから(1月4日~)となります。
こうしてビートルズは、いよいよあのアルバムの本格的なレコーディングに突入していきます。
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皆さんもビートルズの曲を唄ったり演奏したりしながら<ビートルズサウンドの秘密>を一緒に考えませんか?
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