西東京ビートルズ倶楽部(NBC)代表 田中敏久
好評頂いている【ビートルズって、何?】では、自分たちの音楽活動や社会の動きをどう思っていたのか、ビートルズや彼らを取り巻く人々とのdynamics(関係性/集団力学)に注目しながらたどっています。
前回【20】では、1966年の春に、アルバム"Revolber”に取り組んでいた頃のビートルズの、レコーディングスタジオでの革新的な取り組みについて見てきました。
今回は、その頃のビートルズの周りで起き始めていた、様々なゴタゴタやその背景について考えてみたいと思います。
たくさんの皆さんの感想やご意見、どうぞよろしくお願いします。
発売直前に大騒ぎで回収された”ブッチャーカバー”の撮影 <1966.3.25>
さて、前回お話しした”Revolber”のレコーディングに取りかかる10日前の3月25日。
ブライアンからの3本目の映画撮影の話を断固断って得た、デビュー以来初めての3ヶ月間という長い休暇を終えたばかりのビートルズの面々は、ブライアンが関係した雑誌の付録のソノシートのためのインタビュー収録の後、後日大騒ぎになる<ブッチャーカバー>の写真を撮影します。
この写真撮影会は、この年8月に発売予定の"Revolber"に先だって6月15日にアメリカで発売されることになっていた”Yesterday And Today”というアルバムのジャケットにするための写真で、ビートルズ公式カメラマンで日本公演にも同行するロバート ウィティカーのアイデアで企画されたようです。
この写真はいろいろな媒体で紹介されていますから目にすることは簡単にできると思います。 白衣のビートルズのメンバーが、頭と胴体がバラバラになった赤ん坊の人形や動物の肉片を肩や足に乗せているという、どう見てもグロいとしか思えない画像は、正直何度も見たいとは思えない代物です。
因みに、この”Yesterday And Today”に収められたのは、イギリス版の"Help"や"Ruber Soul"で、キャピトルレコードがアメリカ版に入れなかった8曲('Yesterday'、'Drive My Car'、'Nowhere Man'、'Act Naturally'、'If I Need Someone'、'We Can Work It Out'、'What Goes On'、'Day Tripper')と”Revolber”からの3曲('Doctor Robert'、'I'm Only Sleeping'、'And Your Bird Can Sing')の合計11曲でした。
”Revolber”用の3曲も、アメリカからの要請で急遽5月12日にマーチンとエメリックによってミックスダウンされたヴァージョンで、後にイギリスで”Revolber”が発売される際のミックスとは微妙に違うという代物でした。つまりこのLPでは、同じタイトルのアルバムなのにイギリス版とアメリカ版では違う音が出ていた訳です。
このように、この”Yesterday And Today”というLPは単なる曲の寄せ集めでしかなく、ビートルズにしてみれば、原作のオリジナリティも何も全く踏みにじられた内容のアルバムだったわけです。(これ以前も、アメリカでは同様の扱いでしたが・・・。)
デビュー曲のレコーディングで最後までオリジナル曲に拘ったことを想い出すまでもなく、オリジナリティを重んじるビートルズの面々が、こんなことを嬉しく思う筈ありませんよね。
このように”Yesterday And Today”の発売やそのために別途ジャケット写真の撮影をすることに対して、ビートルズの面々が快く思っていなかったことは間違いないと思えます。
(むしろ、苦々しく思ってイヤイヤ撮影したのではないか、とか、「こんなアルバムのジャケットなんて・・・」くらいに思っていたのではないか、と勘ぐりたくもなります。)
実はこの撮影会について、ジョンは当時の心境を次の様に語っています。
「その手のフォトセッションはもう何度もやっていて、その頃はつくずく嫌気がさしてきていた。・・・僕はずっと同じことをやらされるのが好きじゃないんだ。それにあの頃は僕らは天使みたいなイメージでとらえられていたしね。僕らだって人生を考えているんだってことを見せたかったし、だから僕はあのアルバムカバーをすごく推してたんだ。あれをアルバムのカバーに使おうと言ったのは、何よりイメージを壊したかったからだ。」
「僕らは何か違うことをやろうとしてた。イギリスではジャケットを自分達でデザインするとか、そこまでいかなくても自分達の権限はあったんだけど、常にアメリカで出すアルバムの方が多かったから、写真もカバーもそれだけ必要になってくる。」
「僕らはいつも、”どうしてアメリカじゃ14曲入りで出せないんだ?”って言ってたんだ。だって、僕らはいつも曲順を考えていた~並べ方で聴こえる感じが違ってくるからね~それを考えるのだってすごく大変なんだよ。」
(因みに、このブッチャーカバー騒動のお陰?かどうか、この後ビートルズのレコードは、アメリカ版もイギリス版のオリジナルと同じ内容・ジャケットで発売されることになります。)
結局この<ブッチャーカバー>のアルバムは、事前に配布された試聴版のカバーを見たラジオ局のDJ(当時レコードの売り上げに大きな影響力を持っていた)や販売店からクレームが殺到し、予定日の5日前に発売元のキャピトルレコードが自主回収を通知することになりました。
実はブライアンは、ジョンやポールが賛成していたのでこのカバーを渋々進めてきたのですが、その裏で<トランクカバー>と言われる写真の別バージョンを密かに準備していたようで、急な差し替えにも間に合って<ブッチャーカバー>の上に貼り付けて再発売したということです。
この<トランクカバー>の写真に写っているビートルズの面々が、何となくやる気のなさそうに見えるのも、前述のような4人の気持ちが背後にあるようにも思えます。
(因みにこの<ブッチャーカバー>のレコードは、極少量が市場に流出していて、アメリカ等のオークションでは、状態のいいものは100万円以上になることもあるそうです・・・?)
最後のワールドツアーでドイツ・日本へ、フィリピンでは酷い目に <1966.6.24~7・8>
レコーディングを終え最後のミックスダウンまで立ち会ったものの、まだタイトルが決まっていなかったアルバムをマーチン等に託して、6月22日にビートルズは短いワールドツアーのためドイツに向け旅立ちました。※イギリスで8月5日に発売されるこのアルバムのタイトルは、ポールからの7月2日の日本公演の最中の電話で”Revolber”と決まりました。
このツアーで最初に訪れたのは思い出深いハンブルグ等なつかしい筈のドイツでしたが、ステージ上で歌詞について打ち合わせたり、それでも結局歌詞を間違えたり、入っているアルバム名を間違えて曲を紹介したりと、散々なステージの様子からは、ツアー前のリハーサルもせずに気持ちが入っていなかったことが見え見えでした。
ドイツから一端イギリスに戻りましたが、数時間後には日本に向けて出発しました。
この時に、アンカレッジの上空から観たアラスカの大自然の景色に心を打たれたジョージの、
「僕はきっと、前世から地球のことを心配してるんだろうな。子どもの頃はよく一人で歩き回って、自然に触れ、空や木々や植物や動物に親しんでいたものだよ。」という言葉からは、後のインド哲学や環境問題に関心を持つ姿に繋がるメンタリティーが感じられます。
さて、台風の影響で12時間もアンカレッジのホテルに足止めされた後でようやく着いた日本でも、やはりホテルに缶詰状態でした。そんなホテルでの暮らし振りや日本側の準備の様子等などについて、彼らはこんなふうに語っています。
ジョージ「プロモーターはすごく気前のいい人だったね。マルとニールには8ミリカメラ、僕らにはニコンをくれた。(その頃のニコンと言えば、格好のおもちゃだった。)・・・日本ではちょうど学生運動が盛んで、その上、武道館で僕らがコンサートをやるというのでデモが起きた。武道のための神聖な場所なんだからって。」
ポール「僕らはずっとホテルに閉じ込められてて、その間、いろんな業者が来ては象牙やら何やら、いろんな土産物を見せてくれた。・・・僕は皇居を見に行きたかったんだけど、警察はそのアイデアにあまり乗り気じゃなかったね。」
ニール「ジョンと僕はホテルからこっそり抜け出した。地元の市場に行ったんだ。最高に面白かった。外に出るとほっとしたよ。だけど、いろいろ見て回って買い物をしているうちに警察に見つかっちゃった。」
リンゴ「東京で面白かったのは時間配分だ。日本人というのは、時間をものすごく大切にするんだよ。僕らが部屋から出るのは7時14分。エレベーターの前に7時15分30秒に到着。・・・全てそういう具合。僕らは時間通りに動くことになってた。ところが、彼らがドアをノックしても、僕らは絶対に出てこない。彼らの時間配分はみごとに狂ってしまうわけ。みんなだんだん苛立ってくるのが分かるんだよね。・・・僕らも迷惑をかけてるのは分かってたんだけど、ロードでは自分達でちょっとした脇道を探して、それで気晴らしをしてたんだ。だってギグの時しかホテルを出られないんだからさ。」
また、日本でのめずらしいライブの様子についても、こんな感想を語っています。
リンゴ「観客はすごくおとなしかった。あのステージの映像を見ると、どの列にも警官がいるのが分かるだろう。みんな僕らのプレイに夢中にはなっていたんだけど、立ち上がってそれを表現することができなかったんだよ。」
ニール「客席まで音が届くなんて、長い間なかったことだよ。大声で叫ぶ人もいなかった。あれは驚きだったね。それで、メンバーは音が狂ってることにハッと気が付いて、あわてて直さなきゃならなかった。2回目のステージはかなりよかった。~その時は調子が戻ってたから~だけど、初回の昼のステージはちょっとしたショックだったね。」
この感想からすると、「日本公演ではビートルズの演奏が聞こえていた」というのが正解のようですね。
因みにビートルズの公式伝記作家のハンターデイビスによれば、「日本のビートルズファンは、日本人がこの公演のために作成したどこの国のものよりも贅沢で内容も盛り沢山なプログラムからみて、世界で最も教養の高いフアンだということが分かった」ということです。
また、プログラムに付随していた当時のビートルズの全曲名とチャート順位のリストは当時のロンドンにもなく、ブライアンが参考にするためにいつもデスクに一部しまっていたそうです。
さて、日本からフィリピンのマニラに着いたビートルズは、ここでバンド始まって以来の酷い扱いを受けることになります。
まず、空港でビートルズの4人はブライアンやマルやニールとがバラバラにされてしまい、ブライアンが来て助け出されるまでは暑い中でクーラーも聴かない船室に押し込められ銃を持った強面の集団に囲まれるという、本当に恐ろしい体験をしました。
次の日、朝食を食べる前から「宮殿のマルコス大統領夫人の会に出ることになっている筈だ」とたたき起こされ、まともな食事も出されずに宮殿に行くことを強要され続けました。ビートルズはこの手の会には出ないことにしていて、ブライアンが事前に断りの連絡をしたのが宮殿側に伝わっていなかったようで、結局ビートルズが夫人を侮辱したことになってしまっていました。
この日のコンサート自体も、数千人規模の筈が何十万人もいるような巨大な会場で、クタクタになってホテルに戻っても満足な食事も出ない有様は同じでした。
帰国する次の日のも酷い仕打ちは続き、自分達でようやく手配した車でたどり着いた空港でも、エスカレーターが止まっていて自分達で荷物持って階段を上がらなければならなかったり、最後にはようやく飛行機にたどり着いても離陸の許可が出ず、ツアーの売り上げと同額程度の法外な税金を払わされて、ようやく出発の許可が下りるという有様でした。
ビートルズの4人が「もうツアーは金輪際やらない」と思ったのも、無理もないことですね。
このことについてニールは「あれでみんな、ツアーに嫌気がさしたんだよ。あれが棺に打ち込まれた最後の釘の1本だったかもしれないね。あれで、ツアーは終わりになったんだ。」と。
マーチンの話では・・・「あの国を出ると彼らは言った。”もう二度とやらない。これっきりだ”」
「するとブライアンが、”悪いがみんなシェアスタジアムで何かやらないといけないんだ。キャンセルすると数百万ドル失うことになる。””おっと。”」
「それでシェアスタジアムでコンサートということになったんだ。」
「キリスト発言」騒動の後に最後の北米コンサートツアー <1966.8.12~29>
後述のロンドンの新聞に、ジョンのモーリン クリーブ(ロンドンのビートルズとも昔なじみの新聞記者)とのインタビュー記事が載ったのは、1966年3月4日のことでした。
このインタビューは、ビートルズのメンバーの家庭生活についてのもので、その中でジョンは最近読んでいる本の中にキリスト教についての本があることに触れ、イギリス国内の教会が衰退してきていると思っていること等について話したのでした。
このジョンの発言について、ポールも「ジョンは皆がはっきり感じていることを口にしたのさ。英国教会はもう何年も前から衰退しつつあるって」と言い、インタビューが出た時にもイギリス国内では「いつものレノンの毒舌」程度と受け止められ、問題にされることはありませんでした。
ところが、イギリスでこの記事のことが忘れ去られていた7月の末、この記事の掲載権を得たアメリカのティーン向け雑誌が、ジョンが「ロックンロールとキリスト教、今じゃどっちが重要なのか僕には分からない」と言ったという言葉を表紙に印刷して売り出し、(思惑通りに?)アメリカでは直ぐに大騒ぎになったのでした。
アラバマ州のラジオ局のDJの呼びかけに応じて、22のラジオ局が一斉にビートルズの曲を放送禁止にしました。中には元々ビートルズの曲などかけたこともなかったのに、自局の宣伝のためにこの<反ビートルズ・教会賛成運動>に加わった放送局もあったようです。
一部の放送局はビートルズ関連の物品を焼き払う集会を企画し、人々を招待してビートルズのレコードや本・関連商品を持ち寄ってたき火で燃やし、カメラの前でにっこりしながら?実況中継するという有様でした。
この騒動の発端を、元広報宣伝担当でこの頃はアメリカ在住だったデレク テイラーは、
「モーリン クリーブの記事が『ロンドン イブニング スタンダード』に出たのは3月の話だ。それがアメリカツアー間近の8月になってアメリカの雑誌に転載されたんだよ。ビートルズはキリストよりビッグだっていうジョンの発言が『デイトブック』というティーン雑誌の大見出しになった。・・・ジョンのコメントでアメリカ人がカンカンになってるってね。2ページの記事のうち、ほんの1行に過ぎないのに。」とあきれて言います。
マーチンもこの事件の顛末を次の様に言っています。
「あの言葉がアメリカで取り上げられると、あちこちのラジオ局で話題になり、どんどん膨らまされていった。そして、ビートルズに嵐のような抗議が押し寄せたわけだ。”何様のつもりだ、自分達をキリスト”と比べるなんて?レコードが公共の場で焼かれ、ラジオ局からも締め出された。とてつもない状況にまで発展してしまったから、ブライアンはジョンを説き伏せて、記者会見で謝罪することにしたんだよ。」
状況がかなり悪化してバイブルベルト一帯でKKKがビートルズ人形を作って焼き捨てるようになり、メンバーの誰かが狙撃されることを恐れたブライアンは、アメリカに行ってプロモーターや行政関係者とツアー中止も含めて対応を検討します。それでも「中止するとかえって大騒ぎになる」と誰も望みませんでした。ブライアンは現地で謝罪し、次の様な声明文を出しました。
「・・・彼が実際に述べたこと、そして、彼の真意とは、この50年間でイギリスの教会が勢力をなくし、それによってキリストの力も失墜してしまった。その現状を嘆いているということです。ビートルズは有名だなどと吹聴する気などありませんでした。彼はただ、一部の若い世代に対しては、ビートルズの方が直接的な影響力を持つように思える、それを指摘しようとしたのです。」
(バイブルベルトは、アメリカ合衆国の中西部から南東部にかけてのキリスト教会への出席率が非常に高い地域で、キリスト教が熱心に信仰され地域文化の一部となっている。
KKK<キュークラックスクラン>は、「北方白人人種至上主義」を理念とし、「プロテスタントのアングロサクソン人等の北方系白人のみが、唯一、神による選ばれた民で他の人種から優先されるべきだ」として、主に黒人、アジア人、ヒスパニック、ユダヤ人等の他の人種の市民権に対し異を唱え、カトリック、同性愛者の権利運動、フェミニズム等にも反対の立場を取る選民思想団体。)
同じ発言がイギリスでは何も問題がなかったのにアメリカでは大騒ぎになってしまった経過を見ると、ビートルズの発言や考え方に対する英米での受け止め方の違いもあるようですが、そもそも、この騒ぎ方には音楽とは無関係な何らかの意図があったように思えてなりません。
この点に関して、ジョージは次の様に語っています。
「あの”キリストよりビッグだ”発言は、アメリカで広まったような意味で言われたんじゃない。
彼らは1か所だけ取り出して、前後関係はまるでお構いなしに膨らませてしまったのさ。だけど、あの反動は凄かった。特にバイブルベルトではね。南部では、鬼の首を取ったような大騒ぎさ。あのディスクジョッキー、あんな騒ぎを引き起こした張本人が写っている映像があるよ。
”さあ、ビートルズのゴミを持ってきてくれ。そんなものは捨てよう!アメリカ中にゴミ置き場を作って、みんなで燃やすんだ”だってさ。その上、KKKまで出てきた。”我々が奴らを殺す”だって。」
このようにして、この頃のビートルズを巡る様々な出来事・ゴタゴタ見てくると、「何か変だな?何かズレ始めてきたのかな?」という気がしてなりません。
後述するブライアンの動揺する様子からしても、固く結ばれていた筈の<チーム ビートルズ>の絆にもこの頃には少しづつ<隙間>や<緩み>が生じ始めていたのかもしれません。
さて、全世界に報道されたジョンの謝罪会見の翌日の8月12日のシカゴから、ビートルズ最後のコンサートツアーが北米大陸で始まりました。
カナダのトロントを挟んで13会場で19回公演。いずれも数万人規模のスタジアム中心の大会場でしたが、満席にならないことも多かったようです。
中には、アンプのための電源が配線すら確保されていず、急遽業者を探して雨の中でコードを引き回してセッティングするという酷い条件の会場もあったようです。信じられないことですが、ビートルズがギターをエレキで演奏するバンドだということがプロモーターに理解されていなかったようです。
今日のようなPA(大音量の拡声装置)がないことは勿論、エレキギターのバンドのライブ・ステージをどう設定するか、という方法論も、まだまだ試行錯誤の時代だったのでしょうね。
ある意味、ビートルズの登場と人気上昇が早過ぎたということなのかもしれません。
ところで、アルバム”Revolber”は、この頃にはイギリスでは8月5日にアメリカでも8日に発売されていましたが、コンサートでは一曲も演奏されませんでした。
既に「レコードとライブは別物」というか「ライブではレコードの音は出せない」と初めから諦められていたわけで、コンサートでは「ビートルズの心、ここにあらず」だったと言わざるをえません。
前述のように、この時には「今後はコンサートツアーはしない」と決めていたのですから、完全に消化試合としか考えていなかったのでしょうね。
前回の日本公演の時のようにリハーサルをきちんとすることもなく、最後のサンフランシスコのキャンドルスティックパークでは、カメラでお互いの写真を撮ったり、スタッフにカセットで演奏を録音してもらったりはしたようですが、翌日にはアメリカを離れて帰国しました。
コンサートツアーを止める決断をしてさっぱりしたビートルズとは逆に、ブライアンはこのアメリカでの最後のステージの間中ずっと悲愴な顔をして、「オレはどうしよう?オレの人生はどうなったんだ?」等と言って動揺し、ひどく沈み込んでいるのは誰の目にも明らかだったようです。
※この後、ジョンが初の主演映画を撮影したり、ポールがマーチンと組んで映画音楽を創ったり、ジョージはインドにシタールを学びに行ったりしましたが、その話はまた。
さて、このアメリカツアーの後、ビートルズやブライアンはその後のツアーの予定について、一切情報を発信しませんでした。すると、世界中で「ビートルズが解散するのではないか?」という憶測・噂が飛び交うようになり、ビートルズのフアンクラブにも全世界のフアンからの問合せの手紙が殺到するようになりました。
以前からこの手の問合せに丁寧に対応していたジョージの母ミセスハリスンは、次の様な手紙を数百通も印刷・返信して、フアンの心配を払いのけようとしていました。
「ビートルズは今、クリスマスも返上して新しいアルバムのレコーディングに没頭しています。ですから、ビートルズには解散等という計画はありません。」
ツアーへの気持ちをきっぱり断ち切ったこの頃、ビートルズの面々は、いよいよあのモンスターアルバムに繋がる新しい物語を生み出す作業に取りかかり始めていたのです。
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皆さんもビートルズの曲を唄ったり演奏したりしながら<ビートルズサウンドの秘密>を一緒に考えませんか?
西東京ビートルズ倶楽部(NBC)では、今までもビートルズ好きの皆さんがリアルで集まって ビートルズのCDを聴いて語り合ったりビートルズの曲をライブで聴いたりするイベント等を行ってきました。今「ビートルズのこの曲なら弾ける」とか「演奏してみたい・唄いたい」という皆さんと一緒に<ビートルズサウンドの秘密>を考える<ビートルズ倶楽部バンド>のメンバーを新たに募集します。熱い思いで一緒にプレイして、語り合いましょう!
特に今回、ジョンやジョージ(ポールも!)のギターのパートが弾ける方を、お待ちしています。
また、今回もご紹介しましたが、このサイトの内容やビートルズについてのご意見・感想等、をお待ちしています。特に、<ビートルズの楽曲の中でどの曲が好きか、好きな理由やその曲にまつわる皆さん自身のエピソード等々>は大歓迎です。
皆さんの熱い・厚い想いを、メールでご連絡下さい。お待ちしています!
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