1923(大正12)年9月1日発生の関東大震災から100年。本紙では、旧田無市・旧保谷市(ともに西東京市)、東久留米市、小平市の市史をもとに、「そのときの地域」を探った。
各市の市史から読み解くと…
この日は朝から風雨が強く一時は暴風雨のようにもなったが、午前11時頃には晴れ間が見え、蒸し暑かったという。
相模湾北西部を震源とするマグニチュード7・9の大地震が発生したのは11時58分。田無の総持寺では施餓鬼会があり、振る舞われる昼食用の白米1俵分が炊きあがったところだった。境内には露天商がずらりと並んだとのことで、東久留米市史には「子供たちが田無のダルマ市に向かう……」との記述がある。道中で被災した人も多かったのかもしれない。
その瞬間、ゴーッという風が起こったという証言が幾つかある。青梅街道では電柱が折れ、電線が波打ち、屋根瓦が煙を上げて落下し、名家の土蔵や石倉も倒壊した。
とはいえ、10万人以上の死者を出した大震災にあって、この地域での被害はさほど大きなものではなかった。保谷市史では北多摩郡の被害として、死者2名、行方不明者2名、重症者2名、軽症者4名、全壊建物63、半壊85、焼失0を記録している。なお、東久留米市史では地元の死者として32歳男性と6歳男児を挙げているが、この2人は横浜で被災しており、前述の死者2名に当たるのかは判然としない。
地震発生後は余震が頻発しており、多くの人々が「地盤が強い」と信じて竹やぶで一夜を過ごしている。着の身着のままでも過ごせる季節だが、恐らく蚊などの虫には悩まされたことだろう。
ちなみに、有感の余震は翌2日の正午までに356回(約4分に1回相当)、2日正午から3日正午まで289回、3日正午から4日正午まで173回が中央気象台で記録されているが、その数を下保谷の金子新五郎なる人物が独自に記録し、ぴたりと当てている。夜間にも発生しているのだから一人でカウントを続けるのは不可能なはずで、何らかの組織を作ったのだろうか。どんな人物だったのか、興味深い。
農村から住宅地への転換点
さて、関東大震災というと「朝鮮人襲来」などの流言飛語があったことが知られるが、この地域も無縁ではなかった。各地とも自警団が結成され、「朝鮮人を見つけたら殺せ」「いや、むしろ収容して保護しろ」との葛藤があった。混乱の中で情報がなく、人々が不安に駆られていたことが読み取れる。
一方で、被害の小さかったこの地域では、被災地支援の活動が早い段階から行われてもいる。青年会や愛国婦人会、学校などが中心となり、物資提供などを行った。東久留米では281人から、小平では748人から、毛布や古着、手ぬぐいなどが寄付されている。また、保谷尋常高等小学校児童からは、雑記帳888冊、鉛筆919本など計1943点が被災地に贈られている。
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たくさんの避難者もこの地域にやって来た。9月末時点で、東久留米=203人、田無=240人、小平=275人など、北多摩郡で計8137人の避難者がいたという。保谷村の人口が4000人台(1917=大正6=年)であったことを思うと、その数の多さが想像できる。そのまま住み着いた人も少なくなく、東久留米では、人口増を受けて、自治のためにと村会議員を12人から18人に増やしてもいる。
このようにしてこの地域は、「東京」と地続きの住宅都市としての性格を帯びるようになっていった。この地域にとって関東大震災は、農村から住宅地へと性質を変えていく大きなきっかけでもあった――。