町の姿はどんどん変わるもの。先日は旧東大農場を横断する都道が一部開通。田無駅南口や小川駅西口などでは整備や再開発も進む。 そんな変化の激しい時代だからこそ、ときにはちょっと過去を振り返るのも良いのでは? 東久留米で聞き歩いて得た、知られざる地域の歴史を紹介しよう――。
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「私が幼い頃、いまのイオンモールの辺りは道が細くて、林があって薄暗く、夜はやはり怖い感じがしましたよ。そこにまだ火葬場跡の穴ぼこがあったの」
と80代のお年寄り。
江戸時代まで、東久留米市南沢5丁目のイオンモール東久留米あたりに火葬場があったそうだ。
青梅街道、鎌倉街道、所沢街道が交わっている田無は、かつては「田無宿」として栄えた要衝の地。西国から江戸へ上る際の宿場町だったからである。
「昔、祖母から聞いたのですが、そこまで来て、行き倒れになってしまう人が続出したって。そこでそうした無縁仏となったかたがたや、疫病が流行したときに亡くなった人たちを弔うための火葬場だったようです」(前出のお年寄り)
しかし、時代が変わって明治時代になると、この火葬場は必要がなくなり、廃炉となった。
昭和初期は農研
南沢の辺りは明治時代は地元の大きな農家の所有地で、ほとんどが林のような感じであった。
その後、1923年の関東大震災で多数の墓が倒壊するなどの被害に遭った台東区浅草にある「東本願寺」が、東京の郊外に広い土地を求めて、地元の地主さんから土地を購入。この一帯に「東本願寺別院」を設けた。いずれ墓所として使用するための土地だったので、大半は林のままだった。
昭和に入ると、現在の農林水産省が、この別院から土地を借りて、「農研(現・茨城県つくば市の農研機構)」を設置。牛や豚が飼育され、トウモロコシ畑などが広がる、いわば農業試験場のようなものとなった。
冒頭の火葬場跡は、この農研の隅のほうに、かすかに残っていたようである。
「資料は残ってない」
70年ごろ、その農研はつくば市に移転。別院はその一部を第一勧業銀行(現・みずほ銀行)に売却して、「第一勧業銀行ひばりが丘グラウンド」となった。その頃には、火葬場跡はほとんど所在が分からなくなってしまう。
そしてその場所に、2013年にイオンモールが誕生したのである。
「えっ、初めて聞きました。その辺は昔からたびたび行政の管轄(都道府県や市町村)が変わっていますので、そうした歴史的な資料は引き継がれておらず、何も残っていないのが現状ですね」(東久留米市郷土資料室)
実は今回の取材のきっかけは、冒頭の古老の一言。記録資料がないとなれば、こうした土地の記憶はいずれ消えてしまったことだろう。今だから残せた――という点では、こうしたささやかな記事にも意味はあるはず。
(取材記者・山嵜信明)