「西東京市って、どこ?」
残念なことですが、西東京市民ならきっと体験したことがあるはずのこの会話。とりわけ、高校野球の地方予選“西東京大会”の印象が強く、西東京=多摩全域、というイメージが根付いています。
今さらですが、なぜ「西東京市」という市名になっているのでしょうか。
タウン通信では、西東京市誕生からちょうど20年に当たるこのタイミングで、新市誕生の経緯などを改めて振り返ってみました。
地形としては必然の合併
田無市と保谷市が合併して西東京市が誕生したのは、2001年1月21日のことです。
当時、「21世紀最初の新設市」などと注目を集めました。
西東京市の合併の記録を紐解くと、両市の合併の検討は、明治32年(1899年)に始まっています。全国的に自治体合併が進んだ「明治の大合併」のときです。
その後、「昭和の大合併」時代に合併構想が再燃し、昭和40年(1965年)には合併協議会まで設置されています。合併まであと一歩というところまで来ていたようです。
このときは、結局両市とも単独で市制施行したわけですが、その時点で「市制施行後も、両市とも合併に向けて努力を」との付帯決議がされていたとのこと。
そうしたベースがあり、「平成の大合併」のタイミングで、両市はついに合併を果たしました。
100年越しの合併だったということですね。
ここまで合併が前提とされてきた理由には、何といっても、その地形があります。
西東京市として市域を見ると、比較的整った形となっていますが、これを旧田無市域・旧保谷市域に分割すると、その形状のアンバランスさが把握できます。
一言でいえば、田無市を保谷市が包み込むような地形となっており、牧歌的な例えでは「カニがハサミでおにぎりを挟んでいる」、野卑な言い方では「保谷ふんどし、田無金〇」などと表現されてきました(※〇の部分には、ふんどしに包まれるものをご推察ください)。
一目で分かる市域のいびつさですが、その理由は、歴史・文化の違いによるものでした。
田無は特に江戸時代に青梅街道開削によって拓けた地域で、宿があり、近隣地域にまで目を光らす大名主が暮らした土地でした。
一方の保谷は、純然たる農村地。たくあんなどを生産し、江戸市中まで売りに行くような暮らしをしており、人を迎え入れる「田無」と、自ら出向いていく「保谷」という対照的な風土がありました。
ともあれ、特に保谷においては、いびつな市の形のため、長らく総合病院がない状態が続くなど、不利益が生じていました。
公立学校などの公共施設の配置においても、田無・保谷が一つになったほうが効率的に建設・運用できるのは明らか。
そうしたことからすると、21世紀での合併は遅すぎるものだったといえるかもしれません。
合併・市名は、市民の投票で決まった
そのようなわけで、平成の大合併の流れの中でようやく合併にこぎつけた両市ですが、その手続きは慎重に行われました。
両市の市長とも合併推進派でしたが、当然ながら、市民の合意なく進めれば、新市でさまざまな禍根が残ることは目に見えています。
というわけで、両市で実施されたのが合併の是非に関する「市民意向調査」でした。
この市民意向調査は18歳以上を対象にするという画期的なもので、両市長とも「反対票が賛成票を上回ったら、この合併は白紙」と表明したことから、実質的に住民投票ともいえるものでした。
(なお、この意向調査は『18歳選挙』の先駆的取り組みとして注目されるもので、それについては以前に『西東京市の輝ける歴史 18歳選挙はここから始まった』でご紹介しています。ご参照ください)
そして、このときに、合わせて新市の名称が市民に問われています。
5つの候補から「西東京市」に
新市名の候補として市民に提示されたのは5つ。
西東京市、ひばり市、けやき野市、みどり野市、北多摩市、です。
この5つの候補は、公募で全国から集まった3190種類(応募総数は8753通)の中から合併協議会によって絞り込まれたものです。
投票日前に町の声を拾った当時の地域紙をめくると、
「字数が少ない名前がいいな。ひばり市とかね」(73歳男性)
「けやき野がいい。『武蔵野』にあやかって、ちょっと高級感が出るんじゃないですか」(40代主婦)
「もっといい名前がないんですかね。西東京、けやき野、北多摩、ひばり、みどり野……。どれもサエナイねえ」(66歳男性)
といった市民の意見が残されています。
みんな迷いながら……といった雰囲気がうかがえます。
で、実際の投票結果ですが、市名については以下でした。
新市の名称候補と投票結果
- 西東京市 17,638票
- ひばり市 13,752票
- けやき野市 8,768票
- みどり野市 6,229票
- 北多摩市 5,918票
この結果、市民意向調査でトップとなった「西東京市」が新市名と決まったわけです。
——もっとも、確かに市民意向調査でトップとなったとはいえ、この名称の選定プロセスについては、当時も否定的な声がありました。
まず、名称の絞り込みが適切であったのかどうかという点。例えば「みどり野市」などは、この地域の特性・歴史・文化を思わせる要素がほとんどなく、候補として上がるべきだったのか疑問が残ります。
また、「ひばり市」は、あまりにも特定地域(ひばりが丘団地)に寄り過ぎているようにも思われます。例えば田無周辺や下保谷周辺の人たちには、なかなか受け入れ難い名称といえるでしょう。
同時に、選択肢の数にも疑問が残ります。
5つの選択肢を置いたわけですが、仮に、西東京・ひばり・けやき野の3択であったなら、トップは入れ替わっていたかもしれません。
さらにいえば、数多くの選択肢を提示してトップを選ぶということなら、10択くらいにする方法もあったはずといえるでしょう。
結果的に市民が選んだという形になったものの、「西東京市」という、東京西部ならどこにでも当てはめられそうな市名になったことで、冒頭のような「西東京市って、どこ?」と問われるような状況が生じました。
「新宿でタクシーに乗って『西東京市まで』と言ったら、『青梅の先でしたっけ?』と聞き返されたこともあります」
と語ったのは、昨年、西東京市の郷土カルタを作成したメンバーの一人です。
行政職員の中にさえそうした意識があったようで、新市が発足して間もない頃には、町の標識で「西東京市」と記したルビに「westtokyo-shi」と書いてしまい、急きょ、「nishitokyo-shi」と直すハメになったという“事件”もありました。
westtokyo-shi では、固有名詞ではないですからね。
そのぐらい、地域特性を反映しない市名だったといえるのでしょう。
まことしやかに語られる大構想
——と、こんなふうに市名を揶揄し続けては怒られるかもしれないので、「実は西東京市となったのには深いワケがあった」という、ウソともホントとも分からない説があったことをご紹介しましょう。
上記の5つの候補をご覧いただければ皆さんお感じになることでしょうが、ある意味ではこの5つは、現在の西東京市周辺ならどこの市にでも適用できるような名称です。
特にこの中で注目したいのは「北多摩市」。
北多摩といえば、西東京市、東村山市、東久留米市、清瀬市と、カウントの仕方によって小平市を加えた5市のエリアを指しています。
実際この5市は、多摩北部都市広域行政圏協議会を組織し、連携して広域行政を行っています。
で、まことしやかに語られるのが、この5市での大合併。
5市は言い過ぎにしても、地理的にも組みやすい東久留米市については、合併の可能性が一時模索されたことがあったようです。
もしも5市合併などが実現していたら、「西東京市」の名称は、このうえなくぴったりしたものだといえるでしょう。
そんなことから当時、「今後の近隣市合併の可能性も考えて、『西東京市』の名称が残った」とも密かに語られていました。
ちなみに、昭和28年に合併構想が持ち上がったときには、武蔵野市・田無町・保谷町・小金井町での4市町合併が構想され、翌29年には、これが田無町・保谷町・久留米村(現・東久留米市)の3町村合併にスライドしています。
さらに、昭和36年には再度、田無町・保谷町・久留米町の3町合併構想が持ち上がっています。
こうした歴史を見ると、合併には長い年月が必要なのだとも感じます。あるいは30年後、50年後に、さらに自治体を減らしていく大合併が行われ、北多摩エリアが一体となることもありえるのかもしれません。
そのときの市名は、「西東京市」が第一候補となるのでしょう。
「合併」と「投票」から見えること
最後に、改めて田無・保谷の合併について一つ考えてみます。
問いたいのは投票率のこと。
住民投票の性格を帯びた「市民意向調査」は、市民が直接自治にかかわる絶好機だったはずですが、このときの投票率は田無で45.04%、保谷で43.51%とともに50%を割る結果。
確かに合併賛成が反対票を上回ったとはいえ、投票有資格者の総数でみると、合併に積極的に賛成をしたのは、田無で約22%、保谷で約28%という結果となりました。
特に興味深いのは田無のほうで、票数で比較すると、合併賛成は1万3971票、反対は1万2288票で、その差はわずか1683票。
こうした結果から、「田無市民は合併をさほど望んでいない」と言われ、田無・保谷の「融和」が新市においての大きなテーマとなりました。
そんな状況で2001年1月に船出した西東京市でしたが、早くも物議を醸すような事態が。
当然ながら新市スタートとともに新市長が必要になるのですが、田無・保谷の両市長が立候補したため、いきなりぶつかり合うことに。
加えていえば、田無の末木達男市長と、保谷の保谷高範市長は、合併推進協議会で会長・副会長を務めた間柄です(末木市長が会長 ※肩書きは当時)。
そんな二人が争う選挙は、皮肉にも、両市民にそれぞれの市民としてのアイデンティティを呼び起こす結果となりました。
選挙結果は、保谷氏の当選。
ただし、当時の有権者数は、田無市は約6万4000人、保谷市は約8万5000人で、2万人近い差があり、その差が選挙結果に影響したとも指摘されています。
* * *
そんなこんなで始まり、はや20年。
市民の多くが入れ替わり、今では「田無・保谷」を語るのは古くさい限りですが、これもまた地域の歴史の一コマですね。