清瀬の総鎮守といえば、志木街道に面する日枝神社になります。
創建は天正7年(1579年)と伝わります。街道筋に村々ができていく頃で、地域の人々の心の拠り所として開かれたのでしょう。
現在も鳥居の前には、上清戸・中清戸・下清戸を表す「三清戸」の石碑が残ります。
まずは1分ほどの動画で、境内の様子をご覧ください。
動画(51秒)
天台宗の名残り
言うまでもなく神仏混淆の時代のことで、当初は「日吉山王大権現」と称しています。
日吉山王社の由来は、唐の天台山が地主山王を祀っていたこと。最澄が比叡山に延暦寺を開く際、それに倣って山王を祀ったのが始まりです。
山王はもちろん山の神であり、日吉山王社では、山の神、田の神である大山咋命を主祭神としています。
山の神といえば、猿はその使いと考えられています。そのため山王社では猿が祀られており、清瀬の日枝神社の境内にも、三猿をあしらった一対の石燈籠が置かれています。
長らく雨ざらしだった石燈籠ですが、風化が進んだとのことで、現在では、祠に納められています。
燈籠の下部にしっかりと彫られた三猿で、その姿は愛らしいものです。
ちなみに、一般に「見ざる」「聞かざる」「言わざる」は「過ぎたことをしない」という戒めとして認識されていますが、三猿は「魔さる」「勝さる」に通ずるとの解釈から、悪事災難を取り除く守護神ともいわれています。
なお、この三猿の石燈籠は清瀬市指定有形文化財になっています。
幻の寺、の存在
それにしても、なぜこの地に、天台宗と縁のある日枝神社が鎮座したのでしょうか。
その理由を探ると、今はなき、正覚寺の存在に行き当たります。
正覚寺は、現在の日枝神社・社務所の辺りにあったと見られる、天台宗の寺院です。
実は、現在、日枝神社が不動明王立像を収蔵していますが、これはもともと正覚寺の本尊だったものです。
その様式から室町時代後期の制作と推定されており、ここからすると、恐らくは正覚寺のほうが日枝神社よりも先にこの地にあったといえます。
つまり、天台宗の寺院が先にあり、村の鎮守として神社を創建するときに、両者を並立させたと考えられるわけです。
その後、明治元年の神仏分離令によって日吉山王大権現は日枝神社となり、今日に至ります。
遠方からも参拝者のある「水天宮」
そのような歴史を持つ日枝神社ですが、末社が多いのもここの特徴の一つです。
中でも特に有名なのは、福岡県久留米市の本宮から分祠した「水天宮」です。
水天宮は言わずと知れた、水と子どもの守護の宮。とりわけ安産祈願の場として親しまれ、毎月「戌の日」と御祭日である5日には大勢の人でにぎわいます。
なお、祈祷は、予約不要で、日中に受けることができます。
「ひいらぎ」伝説
このような由緒を持つ日枝神社ですが、ここには一つ、伝説が語り継がれています。
境内にある柊(ひいらぎ)にまつわる話で、時は古代にさかのぼります。
それは景行天皇(ヤマトタケルの父)の時代。
ヤマトタケル(日本武尊)が東征でこの地に至った際、この柊の下でしばし涼を得て、「清き土なり」と仰せられたというものです。
以来、この地は「清土(きよと)」と称され、いつしか「清戸」となった――という伝承が残ります。
ちなみに、当時の柊は大正年間の台風で損傷し、現在、境内にあるものはそのヒコバエとのことです。
縁起の良さにあやかる
何にせよ、この神社の特色は、何といってもその縁起の良さにあるといえそうです。
神社はどこも縁起の良い場ではありますが、その中でもここは、安産祈願の水天宮があり、「魔さる」の三猿があり、ヒイラギ伝説が残り、とてもパワフルな場です。
忘れてならないのは、日枝神社が大山咋神と共に、大己貴神を祭神としているところです。
大己貴神は、大国主命と同神。すなわち、縁結びの神でもあるのです。
清い土のもと、縁が結ばれ、安産祈願——。
こう思うと、清瀬で長く信仰を集めてきた理由が分かります。
見学の際は、広々した境内でゆったりと時を過ごし、神社のパワーをその身に取り込んでみてください。
なお、日枝神社本殿は宝暦9年頃(1759年)の建立と見られ、市の指定有形文化財になっています。
また、拝殿横のスギの巨木は、市指定天然記念物です。
こちらの樹齢は推定約400年。一般に山地に生息する杉が台地でこのように巨木となる例は珍しいそうで、ここからも何か神通力を感じます。
樹齢400年といえば、ほぼ創建の頃。きっと、人々のさまざまな願いを見届けてきたことでしょう。
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