清瀬最古とされる寺院「円通寺」のそばに、ひっそりと開けている下宿の「八幡神社」。
ここは、円通寺同様、新田家にゆかりがあり、新田義輔が暦応年中(1338年〜1342年)に創建したとも伝えられています。
周囲の静けさと拝殿の飾らなさが手伝い、見どころは鳥居のそばにある清瀬市指定天然記念物「下宿八幡神社のケヤキ」だけのように思えますが、明治初期の記録で3反余り(約900坪)の土地を有していたと残されており、古社として相応の格式を持っていたことをうかがわせます。
その雰囲気を、まずは動画でご覧ください。鳥居そばのケヤキも収録しています。
動画(35秒)
ケヤキが象徴するもの
前述の通り、この神社には、神社の代名詞のように語られるものとして鳥居そばのケヤキがあります。
このケヤキは樹高26メートル超という大きなもので、樹齢約350年とみられています。幹が過度に太くなっておらず、すくっと天に向かって立つ、見応えのあるケヤキです。
このようなケヤキが根を張って育つということは、ここに豊かな山林があったということなのでしょう。現代でも、緑に覆われた長い参道の向こうの拝殿を望むと、こここそが鎮守の杜だと確信させます。
新田義輔とは誰か
さて、この神社に向き合うときに謎として残るのが、創建者と伝えられる新田義輔なる武将の存在です。
当地の記録として重要な史料である『新編武蔵風土記』によると、「当村ノ鎮守、円福寺ノ持」とあり、少なくとも江戸時代の頃は、円福寺が別当寺だったとあります。
距離的にも隣接といえる近さにある八幡神社と円福寺。両寺社とも、村の開発からあると指摘されており、素直に考えれば、新田義輔は新田義貞の弟・義助とみなせるのではないでしょうか。
円福寺の開山は暦応3年(1340年)。その本尊である観世音菩薩立像は、義助が鎌倉から移したものと伝わります。
この伝承を真に受ければ、同じ暦応年中に、同じ人物のゆかりによって、寺社と共に神社が開かれてもまったく不思議はありません。
周知の通り、八幡神社は武運の神とされる応神天皇(誉田別命)を祀る神社。戦乱の世に生きた新田義助が草創するとすれば、これほどふさわしい神社はないでしょう。
中世に思いを馳せる
そう想像すると、にわかにこの飾り気のない神社が、武運の祈願された峻厳なる場に見えてきます。
見学の際は、併せて円通寺に足を延ばし、しばし、中世の頃へと思いを馳せてみてください。
データ
下宿八幡神社
◎清瀬市下宿2-515