小平の歴史を探るときに、外すことができないのが「小川寺」です。
青梅街道に面して堂々たる二天門を見せる小川寺は、地名の元ともなった開拓者・小川九郎兵衛(おがわ・くろべえ)によって開山されています。
———が、寺院は「おがわでら」ではなく、「しょうせんじ」と読みます。
臨済宗円覚寺派の寺院で、薬師如来を本尊としています。
詳細は下記にまとめていますが、まずは1分ほどの動画で小川寺の雰囲気を感じてみてください!
動画(59秒)
村の開拓とともに開山
小川九郎兵衛が村の開拓に着手したのは明暦2年(1656年)のこと(後に詳述)。このときすぐに、江戸市ヶ谷の月桂寺の住職・雪山碩林大禅師を招き開山したとされており、資料上では、1664年の時点で確実に同寺が存在していたことが分かっています。
当時、寺院には、仏事等に加え、檀家制度による地域の人々の管理という役割がありました。
キリシタンでないことを証明するためなどで、新田開発において、寺院の開山は必要不可欠なものだったとみられます。
もう一つの寺、妙法寺
小川寺の見どころをお伝えする前に、もう少し歴史について触れます。
小川村の開拓にあたっては、この小川寺と別に、もう一つ、妙法寺という寺も開山されています。
妙法寺は小川寺から東方(田無方面)に2キロほどのところに開かれました。こちらは、小川久郎兵衛の出身地にほど近い中藤村(現・武蔵村山市中藤)の長円寺の末寺で、曹洞宗永平寺派、釈迦如来を本尊としています。
小川寺と妙法寺。この2つの寺院は、開拓当初、小川家を境に、西側は小川寺、東側は妙法寺と、檀家を分けていました。
檀家争い、そして移転
当初は均等に檀家が配分されていたようですが、変化が生じたのは元禄2年(1689年)のことです。
妙法寺の住職が他界したため一時的に檀家が小川寺に移ったのですが、新たな住職が妙法寺に来ても一部が帰檀せず、その後、妙法寺は衰退の一途をたどることに……。
明治期になると妙法寺には、新たに導入された学制に合わせ、協同学舎(小平第一小学校の前身)が置かれたりもしました。本堂などが教室として使用されたそうです。その間、住職のいない無住寺の時期もありました。
妙法寺は明治42年(1909年)に移転。現在では、国分寺市北町3丁目に立地しています。
妙法寺、後日談
少し話がそれますが、国分寺に移転した妙法寺の境内には、「川崎・伊奈両代官謝恩塔」があります。
武蔵野の代官であった川崎平右衛門と小平市域を管轄した伊奈半左衛門の2人の代官を偲ぶ塔で、この塔からは、川崎平右衛門らの功績を称える文書が見つかっています。
この文書は、関東大震災で倒壊した塔の中から発見されたのですが、昭和25年の再建まで放置されていたため、文書の3分の1は通読不能となっています。
読み取れる範囲から判明したのは、この文書は寛政11年(1799年)の謝恩塔建立時に納められたものということ、川崎平右衛門が百姓救済などの施策を講じていたこと、などです。
川崎平右衛門の謝恩塔は武蔵野の各所で建てられていますが、妙法寺のものはとりわけ立派で、その台座には武蔵野新田74村の名が刻まれています。
この塔がもともと小平の妙法寺にあったということは、想像力をかきたてます。
妙法寺が衰退した経緯から小川家は小川寺のみの檀那となっていたようですが、川崎平右衛門らを偲ぶ謝恩塔は、恐らく、小川家には面白いものではなかったことでしょう。
その塔を建立するときに、妙法寺は誰にとっても都合が良い場所だったのかもしれません。
小川寺の文化財
さて、ここで改めて小川寺の紹介に戻ります。
実は小川寺は、文政2年(1819年)と明治22年(1889年)の2回、火災に遭っており、恐らくは小川村開拓の歴史を伝える資料などが消失しています。
現在の寺院は、大正5年(1916年)に再建されたものです。
とはいえその境内は、今も貴重な資料を幾つか残しています。
その一つは、小平市有形文化財に指定されている梵鐘。貞享3年(1686年)に檀家57戸から寄進されたもので、開村から30年後の村にある程度の財力があったことを思わせます。そこに至るまでには多数の離村者があったことが記録から推定されており、梵鐘には、村に定着した人々の共同体意識を高める狙いもあったのかもしれません。朝に夕に小川村に響き渡った音色は、人々の心を村と結びつけたことでしょう。
もう一つの貴重な文化財は、開拓者・小川九郎兵衛の墓です。
境内を抜けた墓地の最も本堂寄りのところに、立派な墓石を構えています。この墓も小平市史跡に指定されています。
開拓者・小川九郎兵衛
開拓者・小川九郎兵衛とは何者なのか。
現在の小平はこの人物から始まったとさえ言える以上、その人生を追わないわけにはいきません。
小川九郎兵衛は、多摩郡岸村(現・武蔵村山市大字岸)の出身です。その先祖は後北条氏に仕えた武士で、同氏滅亡後、岸村に土着し、有力者となったとみられています。
九郎兵衛が小平に目を向けたのには、玉川上水の開削が影響していたと考えられます。
江戸市民の飲料水確保のために進められた玉川上水の開削は、1653年に始まり、翌年に完成しています。
一方、石灰を運ぶためのルートとして開かれた青梅街道は、田無宿〜箱根が崎宿の5里(約20キロ)に宿場がなかったことから、この間で行き倒れる人もあったといいます。
水を確保できるのなら宿場を造れる——。
小川九郎兵衛はそのように考え、「往還の人馬を救うために、自費でもって新田を造りたい」と代官にかけあい、明暦2年(1656年)に許可を得ます。
以降、農民を集め、開墾していきました。
記録では、農民の数が明暦2年=47人、3年=11人、4年=10人……と増えていった様子も残されています(離村者も多かったようで、人の出入りは激しかったとみられています)。
強大な力を持つ
寺社を開き、開拓を進めた九郎兵衛は、村の名主として強大な力を持っていったようです。
10代後の記録にはなりますが、名主と百姓の関係は主人と家来のようであったとも残されています。
元旦の礼式では、百姓たちは道にむしろを敷き、座して名主を礼拝したとも伝わっています。
ちなみに、小平ふるさと村には、名主・小川家に代々継承されてきた住宅の玄関棟が野外展示されており、その堂々たる構えから、往時の権勢を窺い知ることができます(玄関棟の竣工は1805年)。
ともあれ、村を開き、権力を握った九郎兵衛ですが、必ずしも、慕われる名主ではなかったようです。幾度か農民から奉行所に「不当に扱われている」という訴状が出されているのが分かっています。
もちろん、開墾者たちは、成功の保証もない事業に飛び込んできているわけですから、さまざまな事情を抱え、気性も荒かったことでしょう。
九郎兵衛としても、いい顔ばかりしているわけにはいかなかったに違いありません。
一説では、晩年は故郷の岸村に戻ったともされており、岸村の禅昌寺にも小川九郎兵衛の墓が築かれています。
なお、小川寺の墓の横には市教育委員会による案内板があり、そこには「九郎兵衛は、小川村の開拓と馬継場の基礎を確立した寛文9年(1669)、婿養子の市郎兵衛に家督を譲って岸村に帰り、その年に病を得て12月17日に48歳でその生涯を閉じました。九郎兵衛は岸村の禅昌寺に葬られましたが、後に孫の弥一によって分骨され、小川名主家の菩提寺であるここ醫王山小川寺にこの墓が作られました」と記されています。
青梅街道から山門を眺め見る
小川寺を訪ねる際は、開墾時の小平を思い浮かべることが肝要です。
まっすぐに伸びる青梅街道を眺め、やはり九郎兵衛が開いた小平神明社が街道を挟んで目の前にあることを目撃したとき、こここそが開墾の中心地であったと体感できることでしょう。
徒歩1分の小平神明社には、開拓碑もあります。併せて訪ねることをお勧めします。
なお、同社には用水が流れており、青梅街道に沿うようにして、今は暗渠になっています。
街道があり、用水があり、寺社があり……。目を閉じイメージを膨らませたとき、あるいは、わらじ履きで街道を通り過ぎる農民や人足たちの姿さえ捉えられるかもしれません。
データ
小川寺
◎小平市小川町1-733
◎東大和市駅から徒歩で15分